昨日、ドラムの無限∞虚無くん
http://52789.l-3-l.me/essay/とセッションしてきました。
初めて俺のオリジナルを一緒に練習したわけですが、楽しい^^
でもドラマーには五拍子→三拍子→四拍子という超変拍子を要求してしまった汗
ナパーム・デスやスリッペやディルを超えるにはこれは当たり前だよね!
エレキチェロはスタジオで鳴らなかった><私はキーボードに専念します。
さて、哲学科の彼との哲学談義も面白い。彼はどちらかというと大陸系で、俺は分析系なのですが、
この二人が合わさればすっげえことができそうだ。
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関係性を変項にとって、個物を演算子ととると、どんな関係性にも関わらず個物として
式中に存在する一般的個物が得られる。ここで、関係を変項とした場合、普通、関係は
最低でも己の己に対する関係であるが、ここでは関係先を借定しないことで、
一般的個物の関係、の、関係部分すら一般化する。すると、一般的個物に対する変項としての
関係は、一極をもちながら、その極すら一般的であるから、それが関係性を帯びていくという
過程の中で、当の個物と関係性とが一緒になって、変項である絶対的無と、己である絶対的有とを直観させる。この直観は偶然的と見るべきでない。
もちろん個物を変項に取ることもできるから、その場合は、一般的関係性があって、そこに
一極として個物を借定するが、式中の帰結名辞を空けておくことで、同様の関係(個物と関係性における関係)が得られるが、
やはりこの同様の二つの関係を、起源を遡ると、同様とみるべきではない。
個である名辞は、帰結でないし、前提でもないことで、式に対して相対的である。
それは、関係名辞を貫通するか、階層的に、関係と別論理空間に迂回して在る、というように直観されるのも、
偶然と見るべきでない。
直観の必然性について、直観がアプリオリな時空形式であるとする点で、私はカントと
意見を異にする。直観は、センスデータや物理的対象と、少なくとも時空を共有している。
直観する時間は、私がそこを生きるデータの中で、まず直観されるデータの時空形式と対応する。
次に、いろいろな表象されるデータと対応していって、ついには刺激そのものへと至る。
同時に、直観をセンスと必ずしも関係しないデータの表象とみるならば、私自身の秘密へと
いたることで、センスと私の奥底とを対応付ける。その変項はデータであり、対応付けは
またここでも直観される。センスが恒常的であるがゆえに、私は私の秘密に触れえない。
直観は時空的であるので、センスの時空性、またその解釈に私が束縛されるからである。
さて、センスとは関係性そのものであるので、先の定式が生きる。私がいるのは、必ずしも
自明でない。それは、コギトは恒常的でないからだ。
むしろ、センスはコギトゆえに恒常的でない、とも言えるので、いずれにしろ私の生が、性が、
国籍が、名前が、他のあらゆる変更不可能な私を縛るものが、私の生を構成していて、それが
私の全てででもあるかのようだ。生が、全てであるのなら、生そのものは直観できないだろう。
一般的な生が(私の秘密。その概念化とは別に)センスにより個に分割されるのならば、
直観するものとはどこに在るのか。
これが俺を悩ます問題であり、大陸系と英米系の哲学の交差点たりうるだろう。