ある音楽が対象xの表現状態にあるとき、当然、各構成音は表現の分析音である。
例えば、音楽がある和音を表現しているのならば、構成音の各各が当の和音の分析である。
音が、メルロ=ポンティの表現を借りて、即自状態にあるとき、その音はその音にとって
全体であり、分析の飽和であり、分析の極限であり、もっと正確にいえば、
分析可能性と当の音の即自性との中間にある深淵、そのものの状態にあるのである。
ある持続音の、何を表現しているかの多義性(所属する和音を表現している、もしくは同時的に
所属している旋律を表現している、など)
における被表現の度合、つまり持続音の表現している所属性の度合を、一義に決定できる。
これが、指揮者や奏者による楽曲解釈の深さとか浅さとか呼ばれるものである。
即興とは、作曲点において、ある現在音が未来に渡るある表現の分析であるとき、
その音を限りなく現在に収束させていくと得られる音楽的概念である。続く。
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哲学の才能でいえば、今のところ2ちゃん哲学板で僕を論駁できるやつはいないほどだが、
音楽となるとそうもいかない。俺より凄いやつは沢山いる。
でも音楽を理論的に考えることに長ける私は、いつかあらゆる音楽を一義に定義し、
それらを俯瞰し、極みの音楽を作ることができるようになる…そんな希望を得た。
全ては夜道、いつもの愉しい思考の悦楽において、脳髄を駆け巡った論理の粒子のいたずらのままに。
kyrieの哲学講義♪二講義目
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