メルヘンにおいてマーラーの第三、第七交響曲、ショスタコーヴィチの第四交響曲に比肩する。個人的20世紀の交響曲ベスト20には入りそう。そこにマーラーやシベリウスやP.M.デイヴィスの諸作品が入ることを思うと、
私はこの曲を法外なほど高く評価している。30分、単一楽章。
たぶん、日本で手に入るCDは網羅している。
尾高 忠明 BBC
この曲の暗さを徹底した名盤。根暗な日本人らしさを発揮して、とにかく淡水のごとき筆記で曲を塗りつぶしてゆく。
展開は非常に遅く、細部にあくまで拘泥する。その結果、自作自演以上に緻密に音は鳴らされ、全体像が浮き彫りになる。
この曲を愛する者には絶対に薦めておきたい。爽快感は、ない。また、ユーモアも若干相殺されている気がする。
それでも、圧倒的な感情の渦に巻き込む展開部やクライマックスは感動的で、それが日本人的に細い線で描かれているのが、
現代的でよい。集中力は要するが、感動的な名盤だ。スケールの大きさは獲得しているが、それが力技で無い点も評価できる。
オケも上手いとは言えないが、頑張っているようだ。
バレンボイム/CSO
尾高盤とはまるで正反対の性格で、面白い。尾高が日本人的根暗さでじとじとちまちまおそ~く展開するのに対し、まるでカルフォルニアか
イタリアの陽光の中を駆けるように爽やかで快速の演奏。尾高盤がオケの点で残念なのに対し、こちらは天下のシカゴ響である。
アンサンブルや一体感という意味では、素晴らしい。バレンボイムを評価する批評家も増えてきている中、是非ベルリンフィルとこの曲を
再録してもらいたいものだ。この演奏、細部には拘らすに疾走するが、そうして初めて聴こえてくる本質を宿しているのも確か。
響きが現代的なのだ。チェーン形式もこのような解釈のもとで映える。尾高が音響の面で失っているものを、バレンボイムは鮮やかにかつ軽やかにかつ
色彩豊かに描き出してみせる。音の流れるような性格、上にも書いた疾走感が、単純に気持ちいい。これはこれで、評価できるアプローチである。
金管も派手で、とにかく聴いてて愉しくなれる盤だ。
サロネン/ロスPO
甘く口どける木管、楽器の優しい扱いがユニーク。
緩い緊張感を幻想的なタッチで描く。情感豊かで、勾配があまりみられない分、迫力や厳しさは皆無だ。
音が柔らかいので聴きやすい。目を覆いたくなる現実は、この盤では響かない。音楽本来の牙が、丁寧に包み隠されている。
弱音部分の楽器の扱いはとても丁寧で好感がもてる。水のように滾々と湧き出る楽想が戯れる。
響きのブレンドはもはや職人技。その分もっと金管を鳴らしてほしいかも。
ウィト/PNRSO
全体の音響が、よく研究されている。一音一音のこだわりと、楽想ごとにおける俯瞰とが、この曲を集中力で一気に描き上げる。
力強い暗い衝撃だ。様々なイベントをいちいち鮮やかに照らすことはせず、代わりに曲想を一貫させ、暗さを獲得している。
ルトスワフスキ後期と中期の境にあるこの曲の、後期的な恐怖を主に表現しており、まるでポーランドに住むという怨霊に憑かれたかのようだ。
同じく暗い尾高盤との違いは、迫りくる躍動感が溢れている点である。悲鳴のような尾高盤に対し、こちらは力強い情念とでも呼ぶべきか。
ルトスワフスキ/BPO
自作自演。さすが自分の曲だけあって、細部に至るまで明瞭な演奏だ。音は控えめで、大言壮語しない。
他の盤で聴けないのは、普通の演奏では埋もれてしまうであろう声部が浮かび上がるところで、その浮かび上がりが
本人の自作に対する愛情を反映しているようで、微笑ましい。演奏自体は、クリアな音色で、全くロマンチックじゃない。
曲自体はなかなかロマンチックだと思うのだが、あくまで現代的な解釈を貫く。弦の千切れそうな繊細な音がとても美しい。
スケールこそ、細部にこだわるがゆえに相殺されているが、聴くべきところは多い。特に展開部のフーガは、
声部が絡み合い、どのパートもうねうね自在に動いていて、面白い。もう少し管を鳴らしてもいいのではないか、とも
思うし、小粒な演奏だとも思うが、瞑想度が高く、感情を排した解釈はなかなかに抽象的で、自作自演であるという点を
無視しても、十分立派な演奏だ。
ルトスワフスキ/PNRSO
これが、ルトスワフスキの最期のレコーディングだという。それだけで何か悲愴なわくわく感を覚えてしまう。
音の純粋な遊びとしては、非常に高級。この曲に内在するドラマチックな情念は、まったく表現されていない。
軽やかで、少しも力で訴えない。あくまで冒頭の印象だが。
透明の極みにある愉悦に、心を白く塗られるがまま、次第に怖くなってくるのはなぜだろう。
音は軽いが、研いだ刃物のような鋭さをもち、それは峻厳でさえある。
無表情の能面の如き恐ろしさ、とでも言いたい。面が、心の痛みを訥々と吐露する。抗菌された部屋が白すぎて怖い。
そうやって聴き進んでいくうちに、希薄だった感情性がじょじょに指揮者の中で疼きでもしたのだろうか。
どうしようもなく押し寄せる思いが、無表情を許さない。
ポーランドの暗い歴史が、重みもなく、あらゆる付加物を除き去ったのちの虚無と無念とで、揺さぶってくる。
次第に粘りを増していく音が、感情的に高まっていく様は、まさに恐怖。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7203405
さあ ふ る え る が い い
とは言ったものの、この曲苦手。暗から明への音によるわかりやすいドラマ。
シュニトケの作品の中でも入門的な位置を占めるであろう。
ロマンチックな旋律があると思うと、二楽章は沈みっきり。三楽章ははっちゃけてる。
そして光の降るような終楽章。ちょっと恣意的な構成すぎるとも思うが、
まあ名曲といっていいんじゃないか!?
セディーン&セーゲルスタム bis
イヴァーシキン盤に比べ、チェロの力強さが劣るのは否めない。そこは、この熱い曲を演奏するにあたって致命的だ。
呼吸を一単位とするイヴァーシキンとは対照的に、この盤は楽想を一単位とする。その姿勢は非常に重大だと思う。
一楽章のスケールの大きな盛り上がりを弾ききるのに、呼吸がないと、聴いている側としても窒息しそうになる。
また音色がか細いので、それも息詰まりの原因となっている。
しかしバックのオケは凄い!響きは整理されていて、全てのパートがちゃんと聴こえるし、スケールも厚みも十分だ。
この盤、バックだけをとれば完璧であり、これ以上は望まない。さすがセーゲルスタム、田舎のマイナーロシア指揮者とは
一線を画す。チェロが生きるのは、遅い2,4楽章だ。攻撃力は0に近いが、内省と外向の際どい線上にあって奏でられる
瞑想的なチェロには、落ち着きさえ感じる。終楽章もすばらしいオケが手伝って感動的だが、やはり消極的なチェロは
好みを二分するだろう。
クリーゲル&マルクソン NAXOS
管弦楽の安定さが魅力。シュニトケのオーケストレーションは決して巧くないと思うが、それをカバーして、響きを良く整理してある。
他盤だと金管に押しつぶされぎみな木管に重きを置いてるのもよい。またこの盤をより特徴付けているのは、チェロの地味さである。
チェロは独奏楽器というより、完全に旋律の一部として、むしろオーケストラを彩る。決して積極的なチェロでなく、目立たない存在ではある。
しかしアダージョ楽章の抑制された響きはなかなか魅力的。この楽章だけは、チェロが光る。雑音味のない、美しいチェロだと思う。
しかしバックのオーケストラの、不完全燃焼度はどうしようもない。冷めた演奏である。一楽章は聴き手を鼓舞し、どんどん盛り上がっていくべき
音楽だが、とにかく盛り上がらない。音のバランスに拘泥するあまり、大切な音楽の大きな流れを奪われたかのようだ。
響きは綺麗で、むしろ堂々たるものだ。重厚さまで感じられる。しかし、それだけでは木を見て森を見ず、というものだろう。
終楽章もあまり高揚しない。感動しない。だが一番手に入りやすい、シュニトケ入門としては、お薦めできる盤である。
グートマン&ロジェストベンスキー Regis
圧倒的だ。私はこの盤を4番目に聴いたが、他の盤の存在意義を疑ったほどだ。初演者は違う。まず、オケとチェロのこれ以上ない親和性に、拍手しよう。
流石は一流の伴奏者、ロジェストヴェンスキーである。チェロを決して殺さず、生かしきり、自らは伴奏者としての位置をわきまえつつ、
意図されたオーケストレーションを鳴らしきる。木管が良く聴こえるのもよい。そして深い呼吸と滞空力。ひとたび息を吸うと、その長い持続のうちに、
吐息は底なしのように思える。それほどまでに巨大なスケールは、チェロとバックの別を問わない。これこそが協奏曲の理想の在り方だ、とすら言える。
シュニトケ、いや、協奏曲を聴きたいのなら、この盤を聴け、と言いたくなるほど、完成度は高い。グートマンのチェロは並み居る男どもを蹴散らすように、
まさに男勝りだ。美しい音色とは言いがたいが、ばりばり突進していく攻撃力はすばらしい。力強さで言えば、ややイヴァーシキンには劣るが、
アダージョ楽章のざらついた音色はいいアクセントになっている。
終楽章は、オケはなかなか爆発しない。抑えて抑えて、活躍の場をチェロに譲る。
チェロは息を無尽蔵に使い、気持ちよく昇天する。聴き手も天にも上るような体験ができる。そして本当に最後の最後、
オケは一切の空間を満たし、
その眩暈のするようなカタルシスは、他盤を寄せ付けない。三楽章でチェンバロが大音量で活躍するのも面白い。
ゲアハルト&クライツベルク
海賊盤。ゆえに多分ここで紹介しても、手に入れられる人は極稀であろう。
一楽章のチェロの大暴走を買う。ここだけは、音色を捨て去ってまで迫力を追求した精神において、グートマンやイヴァーシキンを
凌ぐ。かなりロマン派風の解釈で、それが全く違和感を感じさせないのは、この曲が古典化した証だろう。
だが終楽章は金管の息が続かず、寒い。隙間風がする。感動は、ない。
チェロも少しも美しくなく、小粒だ。
イヴァーシキン&ポリャンスキー CHANDOS
イヴァーシキンのチェロを聴くための盤。宇宙に吸い込まれるような冒頭に魅せられ、鬼気迫る迫力に聴くものは力負けする。
芯の強い音色で、よわよわしいオケを叱咤するように音を巻き上げてゆく。一転、アダージョ楽章には傾聴させられる。
影の濃い音色で、作曲者の心の隅まで透かす。これまた吸い込むような深い祈りにただただ聴き入るのみ。
また、美しさも十分で、漆黒の美とでもいうか、闇のうちに孤独を訴える悲しさに、美しさは出し惜しみしない。
三楽章はオケが弱いが、チェンバロとチェロとの掛け合いは面白い。
終楽章もやはりオケが弱い。盛り上がりに欠ける。が、イヴァーシキンのチェロは感動的な盛り上がり方をする。
チェロだけを採っても、購入の動機に十分なりえよう。グートマンの次に推したい盤である。
恐らく、1960年のスタジオとライブの二枚を除けば、網羅しているはず。
クレンペラー/NDR SH 1955 MEMORIES
ごめんなさい、こんな高貴な最初の和音、フルヴェンだけができると思ってました。クレンペラーの他の録音でも、
このベト7の冒頭の高貴さではずば抜けている。そして、これはもうやりたい放題の爆演である。
リズムはしっかりしていること、軍隊の行進のごとき。そして金管の大暴走、ティンパニの破壊的打撃。
音は晩年のクレンペラーのようには丸みを帯びず、ツンツンしている。一楽章のラストに向けての盛り上がりは、
ライブならではと言えばそれまでだが、全員のテンションがおかしい。磁場の狂ったコンパスのように、煽りまくる。
二楽章はオーソドックスで、彼はオーソドックスな解釈を生涯貫いているがゆえに、晩年の演奏に優は譲る。
三楽章も音楽の退屈さを紛らわすほどではない。とはいえ、この楽章も大興奮である。とにかくトランペットとティンパニの
爆音に拍手を送りたい。終楽章は、刻みが尋常じゃない切迫感を聴かせ、まさに血の祭典だ。荒れ狂うが、リズム自体は
変わらない。ゆえに狂気は冷静に忍び寄る。だが、冷静ではいられないほどのテンションの高さは、信じがたい体験を
与えてくれる。後年の神々しいベートーヴェンでなく、肉の揺れる舞踏。クレンペラー入門にちょうどいいかもしれない。
私はこの演奏を、二番目に好む。
PO 1955 EMI
上述のライブと同じ人が振ったとは思えない。冷静な指揮運び、重厚な音色、聴くものを置き去りにするような間髪入れない無呼吸性。
音が宙に浮いているように、各パートの独立性は高い。それらを綜合した大まかな音楽を、聴くように求められる。
独立性が高いがゆえに、透明感すら感じる。しかしそれは音色の面ではない。音色は、濃い。隙間がないほどに。パートとパートの間の
狭間に透明性を見るのである。無呼吸性といったが、一音一音が主張して、一音一音に力が入っている。この全体を眺める中で個々の
音愛でる、まさにクレンペラーの典型のような演奏ではある。もっとも、この若い時期の録音は、後年に比べ劣っている感は否めない。
三楽章に特に顕著で、トリオの瞑想は浅く、つまらない。終楽章のダークな部分では、若干の感情移入が見られた。ゆえに感動もしよう。
だが、70年盤のあの興奮を知る耳には、あまりに冷静さが過ぎるのかも知れない。
NPO 1968 EMI
。
恐らく、指揮者の年相応の実力を期待して聴くと、失望するであろう。とにかく、冷静だ。60年代のクレンペラー、
分けても60年代後半の彼の演奏は、スケールが大きく、音量の振幅もまた大きいのを常としていた。
しかし、この盤、とにかく音が終始小さい。フォルテ部分でも、メゾピアノぐらいで奏でる。
そんな方法をとった演奏がスケール大きいはずも無く、軽く失望を覚えた。この、大空に憧れるような偉大な曲を、
地面を見る視線で奏でたクレンペラー。しかし、聴き所はある。とにかく静かで、一音一音に対する反省が深い。
第二楽章は、白眉。フーガの部分の静けさなど、実に感動的だ。三楽章も、普通は振幅大きく演奏したがるところを、
静かに奏している。それが功を奏し、なかなかユニークな第三楽章が聴ける。フィナーレはやはり静かで、とにかく
盛り上がらない。短調に転調しても、先行楽章で聞けたような深い反省が聴けず、がっかりした。感動は余り無い、というのが
正直なところだ。
NPO 1966 RE!DISCOVER
ライブの海賊盤。正規盤の1968年の演奏と比べると、面白い。まるで共通点がないのだ。
彼は低音の強調を余りしない指揮者であるが、このライブでは低音がぐりぐり強調される。単純に、気持ちがいい。
音量の幅も大きく、指揮者自身大いに興奮していたであろう、とにかく熱をもって指揮しているのが分かる。
二楽章の深みは1968盤に軍配が上がる。しかしやはり音量の幅が大きい分、スケールが大きく聴こえるのも確か。
フーガの後のトゥッティは、管に思い切りヴィブラートがかかっていて、笑えるほどだが、演奏者が真摯なのは分かる。
物凄い盛り上がりだ。三楽章は、余りに軽率だ。特にトリオは、熱が空回りしている。ここでは熱を持つ必要がない。
終楽章は、恐らくベストを狙える位置にある。解釈的には、70年盤を早めたような演奏だが、低音の重みが凄まじい。
ここでは熱気が最大限の良質な効果を発揮し、興奮のうちに終わる。瞑想のうちに終わる70年盤が強力なのは確かだが、
よりオーソドックスな解釈である、と言う意味では、こちらを推す。
NPO 1970 Pandora Box
クレンペラーの生涯最後のベートーヴェンツィクルスから。もっともベートーヴェンがモーツァルトに接近した、この生の千切れそうな
賛歌において、この溢れる希望の眩暈において、彼は白鳥の歌を奏でる。冒頭の和音が、奇跡。どこまで重く、神々しいのか。
その重さは、聴覚において体験できる限界を超えてしまっているがゆえに、一つの謎に留まる。とても遅い展開。重々しい序奏がやっと終わったかと思うと、
透明なササヤキが、主題提示部にて溶ける。そこに不純物はない、表情的には、音の持続に寄り添って纏わりつく、天から地の間ほどの振幅を誇る、
微妙な感情の綾。ここもとても重々しい。そして、生の喜び、生きることへの大いなる感謝を忘れない。展開部に達する頃には、既に音楽は完成してしまっている。
ここで、音楽を展開する意味があるのか。音楽は問う。カタルシスは、押し寄せない。徐々に浸透するものだ。それこそが芸術ではないか?
二楽章は、クレンペラーがフルトヴェングラーを感情移入度において超えた瞬間である。なんとか細く、繊細で、慈しみに満ちた鳴り方をするのだろう。
これは、オケが演奏しているのではない。でなかったら、この音の集合の単一な志向性を、どう説明するのか。主題が回帰する場所は、聖母マリアの陰った
麗しい表情のようだ。音は渾然としている。どこまでも磨り減らされ、彼の生涯、酷使された歌。それが、こ...
単純な音の組合せからなる反復に次ぐ反復である。ミニマル音楽は、特に主題というか、繰り返すモチーフが面白いのが絶対条件だが、この音楽は素直に美しいと感じた。瞑想に耽るような音楽は、音群を繰り返し奏しながら、それでも変化があるように思える。すなわち、第一回目の音群の聴取と第百回目のそれとは、脳に引き起こす印象が、物理的にも生理学的にも異なるはずで、だんだん変化していく聞き手たる己の変化を受け入れる過程こそが、本質だと思う。「これは退屈になってきた」とはもちろん何度も思う。しかし、ある程度耳に慣れてきた音群が、繰り返される度に「これは退屈になってきた」という同じ心的発話を繰り返すはずはない。どこかで、「やはりこれは美しい」と思う瞬間が、何度もある。
私はクセナキスやファーニホゥが好きである。その乱れる音列の不規則な並びが、好きである。乱暴に聞き手に突き付けるような、音によるサディズムを好む。フェルドマンの音楽は、クセナキスのそれとは対極にあると言えるが、決して受動的な音楽ではない。すなわち、聞き手に聴かれるがままの音楽ではない。静けさは加速する。音群それ自体がすでに静かなのに、そのあいだあいだに、より深遠な静寂が訪れる。そして音群は、溜息をつくように自らを鳴らす。溜息がはかれる。はききった後の静寂は、もはやただの静寂ではない。音群を聴かせておいて、その静かな音群が中断する、その間であり、また音群が続くという期待感と緊張感で、張りつめた音響空間を創造する。聴き手は、音群の合間にくつろぐこともできるが、次の音群に真摯に向かうこともできる。それは、いつ終わるのかわからない時間軸上において、妄念を取り去りつつ、待つ態度であり、精神的苦行ですらある。しかし彼はくつろぐこともできる。そのとき、精神は弛緩し、「これは退屈になってきた」と思うのである。そして彼は周りを見渡す。聞き入っている人間もいれば、そうでない人間もいる。人間は彼のほかにいないかもしれない。くつろいでいる間、自ら環境を見渡し、環境を再確認する。それは、音に退屈することの帰結であって、音に退屈するとは、音楽表現の営み以外にはありえない。日常生活の音に退屈するということがあるだろうか。そして、環境を見直し、自分がどういう環境にあるのか、を特別な条件下で思考するのである。それは反省である。反省的思考は、自らに向き合い、ゆえに自らでない外的所与の処理を無意識に任せ、考える。なぜこんな理不尽な環境下に置かれているのか、を問う。そしてその環境とは、オーディオルームであり、音楽である。こうして彼は、再び音楽に向き合う。そして、「これは美しい音楽だ」と再認して、また退屈してくつろぐに違いない。
メルロ=ポンティ的、あるいはヘーゲルやフッサール的反省であるが、彼らはもう古い時代のもので、このような現象学的解釈は、当たっていないだろう。しかし、対象たる音、主体たる精神の関係、という関係性そのものを放棄するのならば、残された音楽の解釈法は、外在性哲学、一元論的哲学、唯物論をさらに超えて行く。音楽は、もはや在るとは言えない。また、人間が音楽を聴いているのでさえない。真実は、「純粋音楽がある」、という現象学的解釈を避けて、音楽の分節が、それぞれ心の状態に対応し、そうすることで音楽が人の心理を記述する。正確には、記述せしめる。音楽「自体」などなく、音楽は波の形で机にぶつかって反射した現象であり、机に対応する。このように、音楽はその閉鎖された空間に対応関係を築き、それは部屋の二重化である。つまり、空間の二重化である。また、聴き手の内面に侵入し、音および音から生まれる印象、退屈さや退屈さから生まれる反省的思考、などに正確に対応する。それはその人の心的輪郭の再記述であり、その人の二重化である。この存在と重複する存在は、しかしあくまで音である。音のうちに、そのような像が生まれ、音は、音にとって観念的な、部屋と心を記述する。すると、音楽を聴いたものはなぞられるだけで、その内面を書き換える力を、音は持ってはいない。音が生むのは、聴衆と部屋の影である。この影と影のもとが、音楽が展開するにつれ距離を開いてゆく。これが感情移入であって、音楽が終了する際の余韻や感動の類も説明できる、と考える。
二十世紀後半ロシアを代表する作曲家であった、アルフレート・シュニトケ(1934-1998)。
彼は習作である0番を含めると、10の交響曲を作っています。
そして、最晩年の作品にして最後の作品となった「第九交響曲」。
私は彼の作品を収めたCDは40枚ぐらい持っていますが、正直、彼の晩年の曲には
当たり外れが多く、特に交響曲第6番はいくらなんでも手抜きで、また交響曲7番も
あまりにも単純すぎるのでは、という思いがあったので、この第九交響曲の初CD化にも
慎重な姿勢でいました。晩年でも優れた作品は確かにありますが、どれも曲想が一様で、
合奏協奏曲第5番(1993)を頂点に、他の作品は私にとってなくてもよい。
そんな気持ちで臨んだ、この第九交響曲。
帯状の襞が苦しげに揺らめく。空疎な田園が、生気のない樹木を実らせ、肉の剥がれた
精神がかろうじて実を捥ぐ。口内に広がる苦味と甘みの共存がこの交響曲の本質である。
苦味が脳髄を侵食し、痛みへと変わる。内臓を食む痛みが血管全体を鈍く走るとき。
そう痛みはよく知っている、今まで叫びに痛みをブレンドするのが彼の作風であったのが、この
曲では不可思議な音階進行が痛みを孕み音の外で堪えている。じっと。それが苦しいほどに
感じられ、ただ心が痛む。空はすでに閉ざされ、光は届かない心中に、覗く綾の絡まり合いが
とても美しい。間違いなく彼は、ショスタコ―ヴィチの域に達した、その抽象的悲劇性において。
具体的悲劇が晩年の形式のうちに霧散してしまわず、内省をひとりごちているような音楽。
速く流れ去る涙は干からびて、残るのは生という生地に残った傷跡。
45分近くある中々の大作で、彼の苦しみに浸された生涯を締めくくるに相応しい曲。
演奏も秀逸。指揮者D.R.デイヴィスは、ブルックナーを指揮するととても退屈なのだけれど、
現代音楽は大得意のようだ。いつかショスタコも振って欲しい。
↓アマゾン購入ページ
http://www.amazon.co.jp/Symphony-9-Nunc-Dimittis-Ocrd/dp/B001OBML2E/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=classical&qid=1237279287&sr=8-2
http://music.geocities.jp/karolszymanowski2000/sho.htm
今はまだハイティンクしかありませんが、家にはバルシャイ指揮、ロジェストヴぇンスキー指揮の全集、
またコンドラシン、ムラヴィンスキー、ザンデルリンクの選集があるので、
量的にはものすごいことになりそうです。
第一楽章
上空を飛翔する理念。不可思議な鉱石の海をかき分け歌う磨かれた諸石。
天が地に溶けて曖昧な味がした。舌の刺激はそれは微々たるもので、
神経が薄れてゆく淡白な満ち引きは、強靭な運命を召喚し、導かれた領野は
孤独な懺悔であった。かくも上行する凱歌を手にかざして、奥底から
溢れるものを断続せん。
第二楽章
純粋性の田園。木々が紡がれては葉を揺らす。人の居ぬひっそりとした
木陰に、昼とも夜ともつかぬ生命が敷かれる。その上を歩くのだ、超越した
想念が。痛みを訴える器官すら未発達で、不協和のまにまに美しい叫びが
己を表すことなく。
第三楽章
飛び出した諸主張、太古に誇張され。攻撃性が不規則に打ち立てられ、
徐々に浸透していく響きが、物質にぶっつかり、火花を散らす。
次いでナイーブな楽想が踊ったかと思うと、ファンファーレが陶酔し、
陶酔のうちに勝利の宴を催す。
_________________________________
さて、英国の作曲家、マルコム・アーノルドの交響曲一番です。
彼の曲は単純だが摩訶不思議、取りつかれたらハマること間違いなし!
この調子ですべての交響曲をコンプします!
第一楽章
悲劇は大海に注ぐ。波の巻く渦に散らばった各ロマン性は、
そのロマンを最大に展開させて、矛盾の扉を開く。
不明瞭な情感はポセイドンの怒りを買ったのか。買っていないのか。
いずれにしろ水面は気もそぞろ、ニンフの調子違いの歌が不安を煽る。
透明感も豊かな歌声に、旅も忘れてうっとりしようではないか。
やがてカタストロフとなって崩れるその流れも、海の不可思議さに回帰する。
第二楽章
胸叩く金管に打楽器の一斉射撃。魔法の調律に身を任せれば、
心愉しくなってくるでしょう?射撃は激しく、確実に脳の快感部分を
刺激する。トリオ。そこには純真な諧謔の園。可愛くて咎められない悪戯。
しかし悪戯はこちらの許容を超えてゆく。やりたい放題のうちに、聴く者も
苦笑いだ。
サンプル
http://www.amazon.co.jp/gp/music/clipserve/B0009F66PY001002/1/ref=mu_sam_ra001_002
第三楽章
悪魔でも召喚しているかの如き陰鬱なアダージョだ。感情性を伴いつつ
意識を苛むそれら呪文は高まり、ここでも作曲者第一級のロマン性が光る。
木の葉がカサカサいいながら、何か重大な対話を耳にする。そのシリアスさには
胸締め付けられる。
第四楽章
呼び出されたその悪魔の所与は、身を顧みぬ愉しさで人々の笑いをさらう。
そんな愛らしい光景に人々もつられて踊り出す。禁止されるべき舞踏は、
巧みに法を笑い、法をすり抜ける。許し難い、限度を超えた愉しさ。
第二主題の憂い味が加われば完成だ。コーダには爆笑すべき展開が待っている。
______________________________
一度やってみたかったマルティヌー交響曲全批評。
この交響曲の愉しさは、本当に爆笑ものです。比肩するのは
ルトスワフスキの二番やルーセルの二番くらいのものです。
http://www.amazon.co.jp/gp/music/clipserve/B0000014CV001007/1/ref=mu_sam_ra001_007
突き刺す脳震盪。駆られて焦がれて、戦場を行く。爆破された石像が手招いている―奇妙な身振りで。
猛々しい金管が喪の開始を高らかに告げるのだ、葬列はパレードさながら
賑やかで、彼の死を歓迎する。
暗寥寂寞たる意識のまどろみに、ウィット、死のウィットは容赦ない。
自傷に次ぐ自傷が、悲鳴を上げる喉を焼き、血管を断つ。
木管の高鳴りが耳に痛い。痛みは感覚を鈍らせ、悲歌も器官に響かない。
波打つ悲愴がしじまをなす。窪みに秘された思いを告げずに死ぬのか、彼は。
ミステリアスで妖面な。母の面影を空に描いてみせた彼は、憂鬱に塞ぎこみ。
輪郭が覚束ない。しかし染みわたったそれら輪郭が光り、足元をかろうじて
照らしていた。不吉な予感がした。鳥たちが舞い、獅子が吠える。
踏みならす蛮族。母は虚ろなガラス窓の向こうで永遠でありました。
イメージは砕けながら、秩序を取り戻したかのように、さびしげに。
_______________________________
プロコフィエフのイメージが変わります。超名曲。
ロシアの重戦車の迫力に、悲痛な旋律。ぜひサンプルを聴いて下さいませ。
いやあ、今日、前から気になってた、MerzBowのアルバム買ってきたんですが、最高ですね!
Merz bow↓
http://profile.myspace.com/index.cfm?fuseaction=user.viewprofile&friendID=1000444671
心地よいリズム感、ノイズ・電子音の「これしかありえない!」というような選択は、
もはやクラシックの系譜に連なる音楽と言っても過言でないでしょう。
ノイズもキツすぎず、クセナキスの「ペルセポリス」をもっとPOPに、
ヒステリックにした感じ??
今、この人に触発されて、「ピンクノイズのためのソナタ」を作ってます。
しかも図形楽譜。近々うp予定です。
サンプルhttp://www.amazon.co.jp/gp/music/clipserve/B0000035MP001004/1/ref=mu_sam_ra001_004
__________________________________
弾け、交差する。
それは、手酷い扱われにも拘らず、笑みを絶やさず、笑みは暗闇に一人ぼっち
その口から笑みの表現体が零れることなく。
ただ鞄の闇に入れられたそれは、教会の鐘の音を、暗闇に奏でられ、
それがこの人形の非倫理性を執拗に攻撃するのだ。
頭の中で、キリエを鳴らし、それは無信仰の罪のうちに一層切実で罪深く、
従ってそれは怒りとなる。
怒りは、それが挙動にまで人形として浮きで得ないので、
心に打ち返されては嘆かせる、不動のうちに。
キリエ、これは誰に向けられたのか、ただ助けを乞いたかった。
こんなときだ、全て人にそれぞれおえあつらいの神がその都度誕生するのは。
笑う口から洩れるは、存在全体を覆うその笑わせるためがこと、
産まれたのに、産まれたのに!
切に願うよ、願いは体を砕くほど強大なのに、それが体を触れんとする
まさにそのとき、輪郭に接しては打ち返される衝撃、その衝撃が嘆いている
細き心に、容赦なく体を当てる。
抱くキリエは途方もなく、まずまずその人形全体であり、抑揚をつけて、
なんとか憐れみにあずかろうとしても、それは笑う存在である罪を、
ますます心を掘り進んでゆく。
あらゆる方位から。
穴だらけ血だらけの心はキリエを血に染め、「キリエ」。
声にならないそれは、自らを憐れむ。
自らを神の巨大さに絶望的に小さく、塗りたくられるキリエに。
その思いの強さが彼を見舞う、それは自慰では決してないのだ、むしろ自傷である。
散らばった心臓の断片。それぞれがキリエする。自分の方が先に憐れまれるのだ、
個々が口々にキリエを叫ぶ!叫ぶ…
サンプル
http://www.amazon.co.jp/gp/music/clipserve/B00000JWIU001005/1/ref=mu_sam_ra001_005
この花盛るこの季節、私はそれを知らない。
人々は皆華々しく、だが私の身体は真っ白、青みがかった白、色なき白。
命の儀式が始まる。それは命地上に堕とし、同じ数だけの命を地上から払い去る。
今やそのときがきたのだ―
体が高まっていく、体廻る命の蝋が一斉に灯され、最期の花火をあげる。
花火は霧散せずに、私を燃やす。
ああ体が熱い、焼ける、あの悪魔が私に悪い夢を見させる!
花火が思考に打ち上げられたとき、それは生涯最高の発熱、むしろ爆発を遂げるのだ。
悲壮感、それは十分に倫理的な悲壮感が湧き出ずる。
私で、原罪の螺旋を、私で終わる。
それでも!あの輝かしい天使は御姿を見せず、部屋は壁とカーテンに閉ざされたまま…
ああ死が、死呼ぶ病が、私に微笑みかける…
なんと美しい、その御顔!それは全身を透き通り、冷たい思想を宿した
瞳し、見つめられること、とろけるように甘い!
彼が私に触れる、死の衝撃が全身を走る!
死との交わり…ああこの快楽、こらえ難い快楽は…
神よ、貴方の遣わした黒き使者に、私はこの身を捧げました。
今や私の魂は、死と生の狭間にて、心地よくまどろむ…
漬かるところは光の彩、否、それはもはや色に留まらぬ…
私の手、…これが?次第に光に溶けていって…
この病の苦しみが死に退けば、またあの美しい顔も望めよう、
私の最初にして唯一恋した、貴方、黒き使者。
_________________________________
次は同じく女流作曲家の、グヴァイドゥーリナの「キリストの最期の七つの言葉」
いきます。
リリー・ブーランジェLili Boulanger(1893-1918)は、
25歳と言う若さで夭折した、フランスの女流作曲家です。
ワーグナー的壮大さを、ドビュッシーの不思議な和音で表現した、
まさに稀有な作品です。
この曲は、同じく夭折したモーツァルトの宗教音楽よりも暗く、真摯で、
厳かです。
__________________________________
年賀状用のイラストを描いてみましたw
ネンリーネです。なんかハンタのマチみたいw
せくしーなポーズを取らせてみました。
フランク・マルタン(1980-1974)は、スイスの作曲家で、
同じスイス出身のオネゲルに勝るとも劣らない、
その実力においてもっと名を知られても良い存在です。
さてこの「ゴルゴダ」をこれから二回に分けて物語風に解説しようと考えていますが、私はこの作品を初めて聴いたとき、三回も泣きました。
これは異例なことです。私が音楽に泣いたのは、
1、バルシャイのマラ10ライブ、
2、ガーディナーのロ短調ミサ、だけだったのですから。
ゴルゴタとは当然、キリストが十字架に張り付けられた、その場所です。
____________________________________________________
あーあ、また額切っちゃったよ、血が止まらなくて絨毯を血まみれにしたときは流石に焦った
神よ、質問をいいですか?これはそこらの質問ではありません。
人類のあらゆる喜びをかけて、全てをこの質問に込めるものです。
そうだ、歌に乗せましょう、質問を、この陰りある質問を、
それとも大合唱のうちに?
お好きなように解釈してください、あなたの御耳には届くもの全てが
豊かな楽音なのだから!
ああ神よ、憐れみたまえ、この問いの恐ろしさ、それは有り得る命全てを、
思想を、砕くものかもしれません、貴方の御回答によっては!
この問いは一つの悲劇なのです。
この私に問いを向けるな、大地の人よ
私は問われる存在ではない、絶対的に問う者なのだ、もしかしたら
そなたらの存在さえ?
己の矮小さをわきまえよ、そなたらは私に問うことは許されぬ、
全て回答は創造物に用意しておいてあるのだ!
神よ、私の心は安らかであります、次の問いは決して貴方に向けたのではない、
世界に放つ謎に、です。
ああ、世界が悲しみに暮れる時刻がきた、森が騒ぎ出す、鳥の群れは逃げ飛び立つ、
私の胸もまたざわつく、こんなときでも魂が平穏なのは、なぜ?
これは独り言であります。ああしかし、謎を抱えることは不安をきたしますゆえ…
生まれながらの罪人よ、ともすれば私はお前達をこのいかずちにて
一撃に滅すことできたのだ。
大地を愛しなさい、そのゆえにそうあるところの民よ、大地は
良き者も悪し者も共に育む、私のうちに真っ先に飛来した思想である。
その寛容さは愚かさなど微塵も含まない。
そなたら大地の民、その名に恥じぬよう生きるがいい。
ああ、なんと謎深きお言葉!私は試されているのか?
私の問いはますます強固になる、ならざるを得ぬ。
しかしこれは、ただの問いではないので、貴方もきっと無視できないでしょう。
いつも通り私ははたを織っていますと、それは閃光のように私を金縛ったのです。
そう、この問いが。
貴方に告白すべきか、どんなに思い悩んだでしょう!
そのため骨は脆く、肉は縮み、命までもが締め付けられる思いです。
ああ神よ!貴方の寛大さは承知していますとも!
私のような罪人を今日まで、いやきっとそれが償われるまで生に留めておかれることの
感謝は、誓って言いますが、忘れたことはございませぬ!
しかし罪を償うどころかますます私には生が謎深くなってゆくのです…
罪びとよ 私を脅かすのか?
私が右手を挙げれば大地は海水に覆われるであろう。
お前に最高の慈悲をもって命ずる、私に問いを向けるな、
お前の一族がことごとく苦しみ喘ぐ前にだ!
この謎めいた中、私は死ぬでしょう。しかし、です。
人類が存在する限り、この謎、この問いは永劫に渡って生まれくることでしょう。
今までの生を、感謝いたします。どんな罰でも受けましょう、
ああ私は怒りを買ったのか、目の前が真暗で何も見えぬ、冷たい、熱い、
ああ神よ憐れみたまえ!
今はシマノフスキとマルタンのみですが、これからどんどん増やして、
100人の作曲家を目指す予定。↓
http://music.geocities.jp/karolszymanowski2000/kyou.htm
うーん、なんか批評でもなんでもない、詩のようなw
でも一応、曲に触発されて書いた詩です。
それと弦楽四重奏曲批評集が、なんと50人50曲に到達しました!
しかもその大部分は20世紀の作曲家。↓
http://music.geocities.jp/karolszymanowski2000/SQ.htm
よくこんなにCD買ったものだ…
ちょっと最近CDへの出費が尋常じゃありません。自粛します。
あ、小説は今推敲を終えました。
早稲田の文芸部の冊子に載る予定です。
ブルックナー名盤案内
http://music.geocities.jp/karolszymanowski2000/bruckner.htm
今はまだブルックナーだけで、しかも盤数も少ないですが、
これから徐々に増やしていきます。
まずはブル・マラ・バッハあたりから書いていこうと思ってます。
サンプル:第一楽章
http://www.hmv.co.jp/product/wmaplay.asp?tn=us%2Fuswm2%2F334%2F980334%5F1%5F01%2Easx%3Fobj%3Dv70622
ついにNAXOS Quartetも8曲目を迎えた。先日発売されたばかりのこの7,8番を
聴いて、興奮が止まなかったので、早速この曲について書くことにする。
前7楽章、約55分という信じられない大作である。しかも、その楽章は全て
アダージョ。尋常じゃない集中力を要求されるのだ。
今にも途切れそうな音を紡ぎ、絡ませる。
どこまでも透明な繊維。
糸はその壮大な悲劇を表現するには、あまりに細い。
無慈悲な現実と、それを嘆く思いとの狭間に、糸は振幅する。
糸は絡まり解けしていきながら、埋葬の準備を進めていく。
激しい坂、木一つない荒涼とした道を、棺を担いだ一行はゆく。
棺を可視せしめていた月明かりは雲に隠れ。
抽象された悲しみが、ある種の諦念へとメタモルフォーゼし、
意識外の場で、縺れ、一つの融合を果たしたのち、意識に還元される。
いつまでも物言わぬ一行。
喪が朝日の到来と共に、静かに終わらんとする。
それは盲にて探し求める者。
掴んだと思うや否や、それはただの霞で。
祈る、ヒステリックに狂信じみて、またそうではなく、
それが無いと知識しながら、すがるところの神に向けて。
唱える文句が気高く抑揚したとき、一面の光の覆いが、平面に被される。
チェロの柔らかい祈りに、弦は尋常なき高みを与え、管はそれに伴う効果性を。
しかしどれほど熱心であろうとも、それが叶うことはなく。
打ちひしがれ、干乾びた、そして水の透明と神秘とをもった響きの音(ね)。
木管が、「ここにいる」という努力さへ、脱しを促す。
寄りしろを失い、しかし目前をしかと睨む勇気。
その決然性が終楽章で結晶する。
それだけにこの楽章はダイナミックで動きも多彩である。
______________________________________________
なんだかP.M.デイヴィスの公式行けなくなちゃったよ!
これじゃサンプルも貼れない…
特にこのCDは、私は偶然中古屋で安く見つけたから良かったけど、
今じゃプレミアついてアマゾンではユーズドで15000!
本人サイトなら7ユーロで買えるのに…残念…多くの人に聴いてもらいたい…
Strathclyde Concertosとは、今は亡きレーベル、Strathclyde社によって
委託された、一連の10の協奏曲のことである。
各協奏曲はその規模や独奏楽器が異なるが、1番はオーボエ協奏曲であり、3つの楽章からなる。
それは、暗き淵において。
それは、何かを志向しながら、その何かが空疎ででもあるかのように。
寂しさ。寂寥。
彼(オーボエ)はしかし、暗ささへ届かぬところへと迷い込む。
それは、純粋性そのもの。
そこにおいて、彼はなんとも奇怪なポーズをとる。頭がおかしいのだろうか。
いや、彼は、そこが純粋性であるから、挙動はそこを特徴付けないことを理解しているのだ。
しかし「そこ」が無くなったら?
彼は奇怪そのものである。
具体的に言えば、それは第一楽章のカデンツァにおいて。
第二楽章、アダージョ。
四角い(あるいは丸い、でも良いが)延長物をわずかに照らす、どこが果てとも分からぬ寂しさ。
寂しさは突如嘆きに−それは言葉を伴って−変容する。この楽章のクライマックスである。
終楽章。
彼は「活動」する。各楽器は息づきはじめる。
息づきの静-動の間の連続性に、彼は依る。
つきまとう寂しさを払いのけながら、かつそれに従いながら、彼は動く。
クライマックス、ティンパニによって活動は絶頂に達し、
彼は音が鳴り止んでも永遠に活動を続けることだろう。
暗き淵にて
暗を四方に発光する管
暗を流し流れを流れる弦
感情的な渇望
その反省における絶望
無限に深き海を潜っても得られぬであろう圧み
同様に広き宇宙を漂っても同様であろう浮遊
協奏する楽器たちの波動の衝突が織るさらなる波動
同時的にそれすら波動とみなす不毛な客観化の営み
「それにしても、この星の海、流れる星、摩天楼とある深層との
静止、このような不条理が…」
この不条理こそ彼の作品の晦渋に与す一要素であろう。
サンプル:http://www.maxopus.com/cgi-bin/sndflow.cgi?ram=sin_conc
彼は、私の持っているだけでも、6つの協奏曲、知る限りでは13の協奏曲
を作曲している偉大な協奏曲作家でもある。
彼の真髄はなんといっても8つの交響曲と宗教曲であるが、
もう少しリラックスして聴け、かつ彼の音楽を十分に堪能できる
これら協奏曲も私は大好きだ。
ただしCDは彼のサイトからでしか手に入らないであろう。
想念に彩られた虚空。
そこに僕は浮遊して。
様々な幻影が飛び交う。
幼少の思い出、眩い過去、憂鬱な現在、不安な未来。
それらが全て半透明して、重なり、色彩は透明な極彩色へと。
対象へと対象へと、移す目ごとに、瞳の地は美しくそれらを反映して。
そしてもはやものを見る必要もなくなった2楽章。
そっと目を閉じる。
一点一点、おぼろげに現れる星の数々。
それは心に次々に浸透していき、心は星で満ち溢れ、柔らかい光をもって。
彼の作品にしては、格段に分かりやすい美しさを持っているので、
初心者でも入りやすいかと思います。
本当に私の宝物のような作品。
ヴァイオリニストのアイザック・スターンに捧げられました。
サンプル:2楽章
http://www.maxopus.com/cgi-bin/sndflow.cgi?ram=violinco
P.M.デイヴィス:シンフォニア
http://www.maxopus.com/cgi-bin/sndflow.cgi?ram=sin_conc
これは後に続く交響曲の前駆であり、この後の彼の方向を決定付けた
記念碑的作品である。
1960代という時代、まだリゲティやペンデレツキやノーノが騒音のような
音楽を書き続けていた頃、彼は一人、静謐な音楽を書いた。
その後の作品に顕在してくる、「永遠の闘病」はここではまだ姿こそ
見せないものの、いずれ戦いが行われるであろう領野を、
作曲者自身が用意しておいたのである。
淡い輝き、音が立ち現れて。
領野の形成、時間による荒廃からその地を留めんと。
そう、その地は潤されていた。
音がぶつかり合うことなく、抽象の宙に島し、
戯れ、互いに触れあい、島の形態を豊かにせむとそれを満たす美しい音群。
それは純粋性を観念による汚染から守らんとばかりに、あまりに透明で
あまりに冷たく−
ー見よ、私は形態を超克したー
いつぞやの蜻蛉の頭蓋が現前する。
それは確かに、ある形態に形態を自ら当てはめるという
能力において、「自らの」形態は超克していた。
こう答える。
ー君の思惟を見てごらん。
いろいろな物が、「あっち」にあったり
「こっち」にあったりするだろう?ー
空間が震撼したかと思うと、頭蓋は去っていったー
__________________________________
P.M.デイヴィス:交響曲第8番
http://music.maxopus.com/sample/mp3/symphony_no_8.mp3
争いに荒廃した精神。
広大無辺な抽象世界、一人彼は迷って。
一方の具体世界、肉体はまさに息を引き取らんと−
物凄い爆発の連続で、この壮大なクロニクルは始まる。
長く抽象にあった緊張が、肉体に爆発する。
完全に肉体から切り離された作曲者の、孤独な歌声。
それはなにを望むものでもなく、ただその孤独を訴える。
一方で彼は孤独でいたいのであって、何重にも自己を
抽象で固める。
やがてくるべき「死」から、己を回避せんと。
抽象に抽象に逃げ回る、抽象へ抽象へ潜り込む、
ああ、それでも悲鳴を上げる肉体は時間を留まることを知らず。
彼の目は生を背け、抽象の迷路へと自己を追いやる。
迷路になら永遠が宿っていよう、とでも思っているかのように−
街に手を触れる。
流れを逆さにした少年が、後ろ向きに歩く。
流れを吟味する少女が、ゆっくり横を通り過ぎる。
巨大な赤子。微小な大人。
全て様態の変容は時間と空間においてなされる。
黄色い大勢の大腿骨が、運動しながら私を囲む。
−我思う、故に我あり
骨どもは一斉にカタカタ笑い出す。
−我とは誰だ?
こう聞き返してやる。
ふと骨どもは動きを止め、一斉に地に落ちる。
骨の愚かさよ。
こんな質問をしなくても、私はその運動だけでなく、その存在をも破壊できた。
こんな街だ。退屈な、イズムだけが真に動き回っている街。
それを捉え破壊する下卑が、私の唯一の娯楽であった−
__________________________________
P.M.デイヴィス:交響曲第6番より第3楽章
http://music.maxopus.com/sample/mp3/symphony_no_6.mp3
彼は余りに、抽象しすぎたのだ。
それだから、抽象の園に入ることを許されぬ肉体が、膨張し続ける抽象に、
ついに悲鳴を上げたのである。
この6番、演奏時間は3楽章で50分という大曲である。
そしてこれは、二重のエゴ(我)、すなわち、神秘を夢見、
至るところに神秘を散りばめんとする巨大な妄想としてのエゴと、
肉体であり、現世の諸体系に従い続け、それによって初めて報酬として
生を与えられる卑奴としてのエゴとの、ついに決着をこの作品に
見ない巨大な戦場であり、二つのエゴをかつては仲介し、今では
陰惨な戦いに引き裂かれてしまった抽象と具体との「狭間の観念」の、
荘厳な墓碑である。
しかし、この作品はまだ序章に過ぎない。
一度戦場に己を投じた作曲者は、その苦悩を作品に表現し続ける枷を
負い続ける。
それはたった今、現在もだ。
彼は今でも戦っている−二つのエゴを戴いた巨大な意識の展望の中で。
ー全ては、形態と質料とに分かれるー
こんな古典的な考え方を否定してみようと
頭で反芻しながら、街を目指す。
街の一部が飛んでくる。
赤煉瓦の断片がふわふわと浮遊しながら、
2つに割れて、4つに割れて、3つにくっつく。
これこそ全ての起源を示しているではないかー
________________________________
P.M.デイヴィス:交響曲第5番
http://music.maxopus.com/sample/mp3/symphony_no_5.mp3
この交響曲は、約25分の単一楽章と短いが、
彼の要素を余すところなく、散りばめた、
そして散りばめられた要素が完全な図形に完全に一致した、
稀有な名作といえよう。
今までは大海のように大きく波打つロマン性を持った彼が、
そしてそれゆえに、波がいくら飛翔しても天に届かぬように、
ロマンが神秘に届かなかった。
また神秘は、その刹那性のゆえに、ロマンの連続的な波に乗ることが
できなかった。
いまや、2番で生まれた神秘が、3番で得たロマンが、
4番で試みたダイナミクスが、想像し得る最高の調和をなして、
天体の衝突のあのエネルギーを以って聴き手を音の十字に張り付ける。
張り付けられて動けぬ私に、天体の創造と破壊とが光の表現として
表現される。
動けぬ私の小ささよ。
我々は余りに小さかった。
ーなぜ汚い肉体をまだ守っている?
私こそは肉体から純粋なのだー
そこで私は答える。
ー貴方は蜻蛉の形をしているではないか?−
頭蓋は顔をしかめ、慎重に現在を伝って去って行った。
つかまっていた現在が折れる。
流れが多層的に流れ出し、そこにいくつもの記憶を見ながら、
ある水平において私は現在する。
その破壊的な現在は、私の骨を砕き、形態を柔らかくしてしまう。
その現在に滅茶苦茶になった人間どもの陰惨な光景を
背後に、原色の緑から次第に灰色へと漸次変容する
上り坂を這う。
その頂点で、水面の無限の広がりを見る。
ぴちゃぴちゃ音を立てて、霞に霞む街を目指していくー
______________________________
P.M.デイヴィス:交響曲第4番より第一楽章
http://music.maxopus.com/sample/mp3/symphony_no_4.mp3
おそらく彼の交響曲でも最も地味な作品に入るであろう。
ここでは3番のロマン性、5番の巨大さはない。
抽象の上に抽象を幾重にも塗り重ねたような塗り重ねに
困惑しながらも、彼独自の魔法のサウンドは十分聴き取れる。
明確な形態性を持たないため、流れて留まることを知らぬ
流れに、かろうじて音「を」つかまっている晦渋さ、それこそが
この作品のユニークである。
「苦しい、苦しい」
花は私のみに聞こえる声で訴える。
それを私は何も出来ず見守る。
奴らを止めるには、私は余りに無情すぎた。
あの美しかった花が、縮れていく、焦げていく。
その醜さに、私は同情などしなかった。
何もかもが、醜い。
海も花も、花を燃やす人間どもも、それらに醜さを与える自分自身もー
_________________________________
P.M.デイヴィス:交響曲第三番より第4楽章
http://music.maxopus.com/sample/mp3/symphony_no_3.mp3
この作品は、P.M.デイヴィス氏の作品の中でも、
最も偉大な作品に数えいれられるであろう。
今まで偉大な風景画家だった彼が、ふと空を見上げ、
その宇宙の広大さ、その神秘、そのロマンに恋してしまった。
それゆえ、この作品は、もはや具体的自然を超越し、
その彼岸に望める抽象的音世界において、
音が何ものも付帯せず彷徨うものとして、
唯一の付帯である関係、音同士の関係が、
関係し、積み重なり、真空に浮かぶ巨大な大気的オブジェクトを
形成する。
その大気の息の長い持続。その大気の端の見えぬ広がり。
大気が核となる形態を維持しながら、
P.M.デイヴィス特有の、あの不思議な幻想をイヴェントとして
自らから剥ぎ取っては、それを次々と遊んでいく。
大気の核はそれ自体霧であって、従って自由に聴き手を霧の中に
惑わすのだ。
惑わされた私は、霧の中にあって、様々な幻影を追いかけては、
霧のいたずらに、霧を迷い、霧を纏い、次第に体が霧に
溶けていくのが分かる。
すると次に起こるのは、私が霧全体に浸透し、その幻想を
自由に体験し、音の粒子が体を突き抜けていき、
そしてついに全てを理解する。
偉大な、偉大な作品である。
摩天楼。
それは秩序のないこの世界に、幾何学的な秩序を別の次元で与えていた。
空のないこの空間に、瞬く人口の光は、なけなしの夜を演出している。
突然の爆発音、銃声、錯綜する人々の声。
「私も戦わなければ」
私の止める声も聞かず、友人はエレベーターで地上へ向かった。
私は彼の情熱的な性格を知っている。
彼が社会を憂いているのも知っている。
私は自分に向かい、彼は外に開いている。
これが彼と私との大きな違いであった。
この場に留まっているわけにも行かず、
友人を追いかけるように急いでエレベータに乗り込んだー
__________________________________
P.M.デイヴィス:交響曲第二番
http://music.maxopus.com/sample/mp3/symphony_no_2.mp3
この交響曲は、P.M.デイヴィスの作品の中でも1,2を争うほど
好きな曲。
大きな弦のうねりに、木琴が仄かな光の点を零していく。
その素敵な幻想性。
管が自然を覆い尽くさんばかりの巨大な波を表現する。
その畏怖すべき圧倒性。
1楽章のクライマックスは圧巻。
交響曲第一番が最も小さい粒子どもの遊びであるとするなら、
交響曲第三番が大いなる天体への賛歌であるとするなら、
聖母マリアに捧げられたこの曲は、自然の神秘の現象的流動である。
_______________________________
小説の感想も歓迎ですが、私が貼ったP.M.デイヴィスの音源の
感想も皆さんから是非聞きたいです!
よろしくお願いします。
ー君は?
ー貴方は?
ーその花はー…
ー私が蒔いたの
ー違う、それは僕がー
ーお互いに蒔いたのね
そう言って顔の力を緩める君は、
私だけにしか見えぬ黄金の光に縁取られ、
そんな自分に気づいた私は思った。
ああ、私は今恋をしてるんだな、とー
__________________________________________
フィルハーモニアオーケストラから委嘱された作品。
当初は単一楽章として着想されたらしい。
さらに一時は「黒い聖霊降臨祭」という標題を持っていた。
全体で演奏に一時間を要する大曲。
複雑な対位法による摩訶不思議な世界、
魔法にかけられたような深い幻想、
豊かな想像力、連綿とたゆとう弦、
透明なオーケストレーションー特にこの交響曲では
鉄琴が多用されているので、そのような印象を強めるー
はまさに彼独自のものである。
交響曲3番から見られるようなロマン性はまだ希薄である。
各楽想はまだ刹那的なものであり、それ自体で完結している。
その各イベントを綜合する幻想的意識の場。
これこそが彼の作品に特別なユニークを与えている。
サンプル:交響曲第1番より第4楽章
http://music.maxopus.com/sample/mp3/symphony_no_1.mp3