デカルトのテーゼ(我思う、ゆえに我あり)が意味するのは、
「我「が」思「っている」ことの認識であり、その我が思っている当の志向対象が思われているが故に「存在」しており、
その存在が、「我」と一致している」ということなのである。つまり思われている志向対象は、
我が思っているがゆえに存在しており、「思っている我の存在」と直接イコールされるまでは、我とは別個に存在している。
つまり「我」は思われてもおらず、その存在に関しては
何一つ言うことができない。ゆえに「我」は無意味である。
思われた志向対象が、思われているがゆえに存在し、ゆえにそれを思っているものが反射的に存在する。
これが「被志向性」であり、しかも逆分析的でもある。
というのは、もし「我」の意味が「思っている」ことからいずれ帰納されるのならば、
まずもってアプリオリに確かなのは「思っている」ことであり、思うことは、何かを思うことだ、
とすれば、思い得るものの全体性を分析したのである。この分析性を限りなく0に近づければ、
「思う」ことは思う内容を欠く、つまり志向性をもたない「純粋思考」となることが期待される。
しかし、それは理念ごとであり、完全な抽象世界の空想にすぎない。なぜなら、「思うこと」とは、
パルメニデスの「あらぬことはあらぬ」テーゼに従うと、思わないことを導くために
思うことがまさに必要なのだ。そしてその時点で、何かを思わないことは、思うことを前提しているのである。
二項対立「思考」と「無思考」は、私が存在論的に「思考」的であるがゆえに対等に存在しているのではない。思考は、それが絶対あるが故に志向対象を借定し、その借定した対象の
延長性から言って、延長を組み上げていく営みでもある。
思考が絶対に分析的ならば、世界の総体が静的でも動的でも、世界は一義に決まらない(なぜ?)。
思考を中心として、志向対象が世界を、「世界の分析」的に存在させているのだとすれば、
志向対象を分析することで、それは思考という営みの分析にとどまり、思考以上の志向対象は
永遠に得られないはずだ、といっても、思考自体が何かの延長である限り、思考を分析することは
思考がそこで存在している世界を開示することと同義である。
少なくとも、思考が志向する先の世界があるはずであり、思考が志向される世界があるはずである。
この二つの世界が同義であるかどうかは、結局人間には分らないのか…?
ゆえにデカルトのテーゼは独我論にとどまるのか?
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V系卒業するとかいって、sadie、アンカフェ、メア買ってしまった…
いいじゃないか!たまには邦楽も聴きたいんだよ!
人間がなしうる思考は、二通りある。
ひとつ:分析的思考
もうひとつ:綜合的分析思考、つまり分析された思考を綜合的に回復する思考
前者の究極は、即自である。即自は、外在を否定する一点、一点の直観に限りなく近づくという
悟りである。この境地に達すれば、純粋空間性、純粋時間性に身を置くこともできよう。
後者の究極は、この思惟を綜合的に分析することであり、外在の一片としてのコギトそのものに
なることである。コギトという直観に優れて一致すれば、同一性の直観そのものとなることが可能で、
同一性の直観は限りなく時空0に近づく。それこそが自己の客観化である。
完全な客観化は、自らを宇宙の一部だと認識するだけでは足らず、一部そのものになる悟りである、
とすれば、俺は悟りを上述のように哲学的に証明した。
悟りには、即自状態と客観状態の二種があるのだ。
英語で哲学史読み始めました~
最初の方は古代ギリシア哲学なので、わかりやすい。質問受け付けます。
Heraclitusの宇宙観は、始めがなく、恒久的に変転している「生」の宇宙だった。
宇宙内における差異は、logos(論理)、つまりありとあらゆる変転と流動を司る普遍的理の調和のなかでの宇宙に限られる。
ここに生は、停止と純存在へ言及される際、変化それ自身を失うことのないものとして定義される。
一方Parmenidesは、永遠に存在し、あらゆる運動がそこから生まれる宇宙を想定した。
ここに生は、運動と変転へ言及される際、存在性それ自身を失うことのないものとして定義される。
これら両方の宇宙観は、前者は永遠に始まっている(始まるという運動が変化を通して表現されている)という意味で、後者は永遠に存在しているという意味で、ともに永遠的である。
一方Anaxagorasは、自分自身を存在、また変化とみなす精神としてのnusの関係を定義した。
でSocrates。nusを生と死の関係の想起として定義した。それは、祝祭と静寂との弁証法として、どちらか一方であることは決してないものだ。
生が、魂の不死と輪廻のなかの死の連続である一方で、死は、魂を想起するという生のなかに在る。
一方で、魂が身体と対比されるとき、価値の階級が仮定される。つまり魂への偏愛だ。
Socratesは、死へのみ、真の否定を見ていた。生は想起として死の中に真実を関係づけ、
しかし身体なき死こそが魂の純粋な状態であるとした。
なぜ、想起と輪廻の生の真理を維持することより、霊的な思考への絶対性を弁証法は産むことをしたのか?それは、生は、その弁証法ゆえに、その反極性ゆえに、生が恒常的であるので、
肉体的思考を間違ったものとして前提するから。
ある音楽が対象xの表現状態にあるとき、当然、各構成音は表現の分析音である。
例えば、音楽がある和音を表現しているのならば、構成音の各各が当の和音の分析である。
音が、メルロ=ポンティの表現を借りて、即自状態にあるとき、その音はその音にとって
全体であり、分析の飽和であり、分析の極限であり、もっと正確にいえば、
分析可能性と当の音の即自性との中間にある深淵、そのものの状態にあるのである。
ある持続音の、何を表現しているかの多義性(所属する和音を表現している、もしくは同時的に
所属している旋律を表現している、など)
における被表現の度合、つまり持続音の表現している所属性の度合を、一義に決定できる。
これが、指揮者や奏者による楽曲解釈の深さとか浅さとか呼ばれるものである。
即興とは、作曲点において、ある現在音が未来に渡るある表現の分析であるとき、
その音を限りなく現在に収束させていくと得られる音楽的概念である。続く。
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哲学の才能でいえば、今のところ2ちゃん哲学板で僕を論駁できるやつはいないほどだが、
音楽となるとそうもいかない。俺より凄いやつは沢山いる。
でも音楽を理論的に考えることに長ける私は、いつかあらゆる音楽を一義に定義し、
それらを俯瞰し、極みの音楽を作ることができるようになる…そんな希望を得た。
全ては夜道、いつもの愉しい思考の悦楽において、脳髄を駆け巡った論理の粒子のいたずらのままに。
kyrieの哲学講義♪二講義目
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1252054859/
I'm studing the history of western philosophy,so…
Aporetic logic is important,it seems.
The author say,
…This recollective logic has its ground in the groundless…
これは、逆説的だ。
すると、
…this threatens to collapse(崩壊する)into infinite regression if conditions need their own conditions…
となるらしい。状態がその状態を必要とする、という言い回しは日本語にしても十分衒学的だ。
…recollection learns something different here than does Neoplatonism.
となる。recollectionの思想は新プラトン主義とは違う、と言いたいようだ。何が違うのか?
recollectionは仮定の論理を学ぶ、という。そして
This logic unfolds itself in thought's self-education as the condition of the possibility of Neoplatonic logic and principles.
仮定の論理は、新プラトン主義の論理と基本原理の可能性の状態として、論理自身を思考の自動学習の中へ開く??と意味不明な文章が出てくる。しかしわかるのは、「可能性の状態」という語の執拗さ。
西洋哲学は、その(西洋哲学の)可能性の状態を知らないとき、それ自身(西洋哲学)を誤認識する。それこそが新プラトン主義らしい。
しかし可能性の状態を「認識する」だけでは、recollectiveな論理には至らない。
誤認識の「認識」はせいぜい、「真実が非真実に打ち克つ」くらいの意味しかもたない。
…疲れる。
昨日、ドラムの無限∞虚無くんhttp://52789.l-3-l.me/essay/とセッションしてきました。
初めて俺のオリジナルを一緒に練習したわけですが、楽しい^^
でもドラマーには五拍子→三拍子→四拍子という超変拍子を要求してしまった汗
ナパーム・デスやスリッペやディルを超えるにはこれは当たり前だよね!
エレキチェロはスタジオで鳴らなかった><私はキーボードに専念します。
さて、哲学科の彼との哲学談義も面白い。彼はどちらかというと大陸系で、俺は分析系なのですが、
この二人が合わさればすっげえことができそうだ。
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関係性を変項にとって、個物を演算子ととると、どんな関係性にも関わらず個物として
式中に存在する一般的個物が得られる。ここで、関係を変項とした場合、普通、関係は
最低でも己の己に対する関係であるが、ここでは関係先を借定しないことで、
一般的個物の関係、の、関係部分すら一般化する。すると、一般的個物に対する変項としての
関係は、一極をもちながら、その極すら一般的であるから、それが関係性を帯びていくという
過程の中で、当の個物と関係性とが一緒になって、変項である絶対的無と、己である絶対的有とを直観させる。この直観は偶然的と見るべきでない。
もちろん個物を変項に取ることもできるから、その場合は、一般的関係性があって、そこに
一極として個物を借定するが、式中の帰結名辞を空けておくことで、同様の関係(個物と関係性における関係)が得られるが、
やはりこの同様の二つの関係を、起源を遡ると、同様とみるべきではない。
個である名辞は、帰結でないし、前提でもないことで、式に対して相対的である。
それは、関係名辞を貫通するか、階層的に、関係と別論理空間に迂回して在る、というように直観されるのも、
偶然と見るべきでない。
直観の必然性について、直観がアプリオリな時空形式であるとする点で、私はカントと
意見を異にする。直観は、センスデータや物理的対象と、少なくとも時空を共有している。
直観する時間は、私がそこを生きるデータの中で、まず直観されるデータの時空形式と対応する。
次に、いろいろな表象されるデータと対応していって、ついには刺激そのものへと至る。
同時に、直観をセンスと必ずしも関係しないデータの表象とみるならば、私自身の秘密へと
いたることで、センスと私の奥底とを対応付ける。その変項はデータであり、対応付けは
またここでも直観される。センスが恒常的であるがゆえに、私は私の秘密に触れえない。
直観は時空的であるので、センスの時空性、またその解釈に私が束縛されるからである。
さて、センスとは関係性そのものであるので、先の定式が生きる。私がいるのは、必ずしも
自明でない。それは、コギトは恒常的でないからだ。
むしろ、センスはコギトゆえに恒常的でない、とも言えるので、いずれにしろ私の生が、性が、
国籍が、名前が、他のあらゆる変更不可能な私を縛るものが、私の生を構成していて、それが
私の全てででもあるかのようだ。生が、全てであるのなら、生そのものは直観できないだろう。
一般的な生が(私の秘密。その概念化とは別に)センスにより個に分割されるのならば、
直観するものとはどこに在るのか。
これが俺を悩ます問題であり、大陸系と英米系の哲学の交差点たりうるだろう。
もうなんかね、明日が締め切りで、四日で書けるか、っていう。。
六月が懸賞論文の説明会で、こつこつやってる人たちがいる中で、俺は期限に間に合わなかった!!せっかくだから貼っておくか…だれか、FATEあたりが読んでくれるだろう…
「人が人を裁くこと」というテーマを一目見て浮かんだのが、ホッブスの「万人の万人による闘争」という考え方である。法のない自然状態は、なまじ彼らが私欲のための
理性を有するがゆえに、益となるものを争い奪うというのである。しかし、もし理性に私欲の面を認めるのならば、闘争そのものを益と解さない理性が、闘争を鎮める何かを
模索するだろうと思われる。そうして拵えられるのが法である、と安易に定義することもできるが、ここでは、人間の有史を顧み、どのように法が発展し、どのように
「人が人を裁くことができるのか」を存在論的に考察する。そして「人が人を裁くこと」という理念の倫理学的意味を明るみにだすことをもって、この論文の結論とする。
人類の発展、猿人から現代人に至るまでの道筋は、現代の赤子が大人になるまでの道筋とはまるで異なっていることに注意しよう。赤子は果たしてアプリオリな概念を
もっているのかどうか、という問題は、次の議論に代表される。すなわち「もし、この『人間の内面』と呼ばれるものが、器状で、何かに満たされている必要があるのならば、
内面とは自然そのものの歪曲に過ぎないのではないか」。なぜなら、少なくとも赤子は知覚という関数を通して、自然を歪曲しているのは疑いなく、
「赤子がそれをいかなる解釈に照らすことなく受け入れるのだ」と主張しても、「ある知覚関数の出力である内面的な何かが、関数によって自然的でなくなっているがゆえに、
個々の対象の関係性を、内面において再構築しているのだ」という主張により反駁される。そして、対象という概念は、知覚の明確な輪郭を前提しているが、例えば視覚世界に
おいて、「認識されているのは彩色された平面である」、つまり「一枚の画像を、対象に分割することなく眺めているという視覚が、原初的な感覚所与である」と還元主義的に
主張しても、虚しいだけであろう。私は現在の私の状態から過去の私を帰納し、そうやって迂回を交えて赤子状態を考えるとき、「今の私は昔の私よりも
対象を多く持っている」つまり「対象の分節は年齢とともに鋭くなる」という状態から推して、「対象は時間を遡るにつれ減っていく」とまでは言えるかもしれない。
しかし完全な対象の無から対象の分節は生じない。認知論は未だ現代哲学においても解決されていない分野であるので、このくらいにしておくが、これから私が認知において
採るべき立場を明らかにするに際して、認知心理学の「オペラント行動」説を、現在最も説得力のある説として採用したい。オペラント行動説とは、赤子の出鱈目な行動すべてを
考えて、ある特定の身体の運動が、一定の効果を引き起こしたとき、この効果と運動との間に対応関係が築かれ(もっともこの効果と運動との間の対応は、
何度も繰り返すことでそれと分かるのであるが)、築きうる対応は、もし世界のほうが一義的であるのなら、自然と決まってくる、という説のことである。
そして、対象の認知以前に、出鱈目な行動を論じるこの説によると、運動と、それが引き起こした反応とが対応関係を築くことにより、反応が徐々に鋭くなっていく。
つまり、何度もある行動とそれによる反応とを引き起こすと、初めは漠然としていた対応関係が、「この行動はあの反応を引き起こす。これは何度も経験したことだ」
というように、強化され、行動が意図的になる。「行動の対象」としての対象が、初めて定義されるのだ。
認知論は以上にしよう。今まで論じたのは、個人と世界との関係であった。次に、個人と個人との関係を考える。主観と他人との関係は、独我論でしか説明されえない、
と言うべきか。しかし、自己という概念は、他己に先行することはない。なぜなら、彼が周囲の人間を客観視し、どれも押し並べて同様である、と理解し、さらに自分と同様である、
と理解するとき、初めて自己と他己が同時に出現するからだ。知覚するものすべてに、独我論を適用するのはいけない。なぜなら、知覚したものが、たとえ独我論的であるに
せよ、それぞれが特徴をなして世界をなしている原理は、独我論的な知覚のほうには存在しない(たとえば、目の前の対象はまさにほかの場所でなくそこに在る、
という原理は独我論の外に求められる)。従って、ウィトゲンシュタインの写像理論を援用するにしても、知覚の関数の入力を「語りえないもの」として一括に還元することは、
それぞれの対象の存在の理由を無視し、つまりそれぞれの対象が関数により出力されたそのままの姿の間の差異、それぞれの諸関数の差異、をいちいち分析せず、
「語りえないものと語りうるもの」として知覚の原理を綜合的に扱うことだ。つまり、今現在、在る知覚から分析した結果として、「語りえないもの」に行き着いたわけでは
なく、いくつかの分析の事例から、「知覚関数の入力は語りえない」と結論してしまうことは、綜合的である。
さて、今まで語ってきたのは、分析的な事柄である。そして、「人が人を裁く」ことは、もちろん綜合的である。なぜなら、「人が人を裁く」と言うとき、それは
現在の事例から帰納できず、「人」「裁く」といった諸概念を組み合わせた結果、初めて生まれるテーゼだからである。そして、人が外の世界に接するに際して用いる関数
を越えて、語りえないと言われる関数の先を超えて、人の自我と他我とが関係をもち、さらにそれら自我間の関係の分析を越えて、「裁く
夢における像の脈絡のなさにも関わらず、それを貫いている何かが存するのか。
像は、思考の表現した像である。つまり、反省的に捉えられた純粋像ではない。
そしてこの、あらゆる像が思考に依存しているから、思考そのものは反省できない。
なぜなら、像は常に在らねばならないし、しかもその像は、一度解釈された像であるので、
像の連続は、思考の表現の連続と同義であり、こうして、思考が逆に、その思考である像を
連続させるからである。つまり、像は思考され表現されたものだが、思考は、
像を解釈したもので、それに限る。
概念を解釈する思考は、夢の中で抽象化の作業がなされていないので、
存在しない。なぜなら、概念はイメージ化されるが、そのイメージ構図とある視像とが対応し、
当の概念を表現するのだ。その根拠はなにか。まず、像は、思考された表現であるに留まらず、
比喩としても機能する。
つまり、前者の場合、ある体系の存在周りがまるごと出現する。
なぜなら、その像は、そこに在るべきだ、という究極の理由を持たないからだ。
後者の場合、比喩とは、視像に対する思考の比喩ないし引用を言ったもので、
その像が、その像の存在周りを思考させる。この思考された表現としての像と、
思考を誘発するものとしての像とが、夢の像を形作るが、この二者の関係を見ていかなければならない
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夢について考えました。夢の理を明らかにすることで、シュール・レアリスムの誤謬も暴けそうです。
ドラクエ9おもしろすぎ!モンハン3も買わなきゃ…
音の持続は、発話により中断される。音は指示体であり、純粋に音を想起させる場合から、
その当の音を生む外在を想起させることもある。
前者の場合、音は発話によって中断される。なぜなら、心的発話は音であり、
しかも外在音と違い、何かを指す音でなく、音即意味であるがゆえに、
それ自体音楽とはならない。
また、心的発話は、音の原因を持たない。というのは、全ての外在的な音は、
物理レベルで空気振動の原因をもっているが、かような原因を、心的発話はもたない。
それを証明するのは、心的発話の原因が、他でもない心的発話による、
という完全に閉じた事実による。心的発話は、確かに何かについての発話であることもある。その場合、何かを対象にしている、とは言わない。
何かの存在周りを描写的に記述している、という。
つまり、何かを対象とすることで、当の何かはそれ自体については考えられない。
それ自体というのは、それの内面を考えることですらない。
内面はそのさらに内面と関係している、という仮説を考えるまでもなく、
ある存在についての思考は、それが思考されるという事実により、つまり思考が、
Aをaとみなす、というAの拡大・縮小変換式、解釈、翻訳にすぎないという事実により、
それ自体については考えられない。なるほど、それがいかに他と関係いていて、
その関係を記述しているだけだとしても、その記述をそれ自体についての記述でない、
とすることはできない、とも言える。
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相変わらず勉強してます。でもドラクエ9が楽しすぎる^^廃人一歩手前です。
ガゼットの新譜、「DIM」よかったわあ。パクリだらけな気もするけど、パクリ元を知らなければ
十分楽しめる^^一曲、スリップノットの明らかなパクリがw
でも本家にも劣らぬ攻撃性でカバーですよ。単なるパクリとは言わせません。
ヘーゲル:精神現象学 p.120
対象が在るという確信が対象そのもの←あくまで確信が対象であって、そのもの自体ではない。
対象それ自体の在りようを「概念」と名づけ、対象の他に対する在りようを「対象」と名づける→
「それ自体」と「他に対する存在」とは同じもの←「それ自体」と言われるものは意識であり、
それ自体に向き合う他も意識だから←「それ自体」は既に意識の対象である。従って対象が意
識された対象であり、意識の構成の一部分となっているのならば、それ自体とは意識の
「部分」である。あくまで部分であって、ヘーゲルの言うように一般に「意識」とは言え
ない。しかし、意識の部分とは意識され、全意識によって意識されるならば、それ自体とは、
意識の一部分を意識全体が意識する、その様を言ったものである。
←意識の重複:意識は意識の好きな部分を意識できる?
これから三回くらいに分けて、現代最高の哲学者ともいわれるドナルド・デイヴィソンの
著「主観性・間主観性・客観性」をの第六論文をテキストに、それへの反駁を試みたいと思います。
kyrieの哲学講義♪【中級・上級者向け】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1238248664/
こちらのスレも参照してくださいw質問反論受け付けます!
トーマス・ネーゲルは(「客観的な自己(The Objective Self)」の中で)、すべての事柄についてそれがいつ起こったかを、客観的に与えられた何らかの時空枠に
関係付けて教えるような一つの宇宙の記述を想像するよう、われわれに求めている
この宇宙によると、その記述とは全ての人の名前がその心的状態込みで列挙されている。その一環として、自己を書きこむ作業があるが、自分の名前を知らないという
可能性を鑑みて、「私」という語を使う、とある。そしてそれがその列挙の宇宙に自分自身を確実に位置づける唯一の方法だ、と。
自己を書き込むのは、いつなされるのか。
というのも、あらゆる人々を列挙するという壮大な計画が、文字通りあらゆる人々を列挙するならば、その円環する作業中に自己を書き込むしかないのであるが、それは
「いつか?」と問われるからである。明らかに、それは最初になされたのだ。ネーゲルは、誰ひとりとして他人の名を書き込むことなく、自己をそこに書き込んだ。
あるいは誰か知人の名をある程度書き込んだとしても、その宇宙の本質とは、彼の客観性であり、彼が居たからこそ列挙が可能であったのだ。すなわち、彼自身が「わたし」
と言い、その後に人々を列挙したので、その問題とは、もし彼が居なかったのなら、そのような宇宙はなかった、というものである。彼の客観性は、彼を客観視しない。
というのも、それによって彼を客観たらしめる人々が、列挙という仕方では生きていないからで、それは死んだ客観性と言わざるを得ない。しかし生きた客観性とは、
不可能ごとである。というのも、彼が客観的であるために挙げる人々が常にそのままでは生きてはいないからで、客観性とは相対的なものに留まる。
彼のいう心的状態が、列挙という形で十全になされるという宇宙は、心に自己を含むとき、他人を含まない。心に自己を含むとは、ある還元不可能な思弁された
自己があって(それが思弁されたというのは、実際の自己が在るとすれば、その事態から十分に帰納された結果としての自己、とは違う自己であるからだ)、
その最低の挙動が、お望みならば心的な挙動が、即自己外であり、一切の思考は不可能に思える事態のことだ。他人を含まないというのは、つまり他人の挙動、その思考の
最先端を含み得ず、それを含むには彼自身が彼の思考で、彼の思考の最先端より他人のそれを考える、という不可能ごとを意味する。この両面から言えるのはなにか。
それは、心に自己を含むことで、心が即自己とならず、また自己が思弁的なものである以上、自己は思弁のもとに在る。そして、思弁は、それが生む自己の観念による挙動が
一切不可能なので、自己に語らせている限り、何も思惟し得ない。すると、思惟しているのは経験的思惟か、自己以前の心であるが、前者はまた不可能ごとである。
というのは、思惟を経験した、とは言うが、二度と同じ思惟が存在しない以上、経験とは最先端をいく思惟の自己の振り返りでなく、そのまま最先端の思惟なのである。
そして他人を含まないということは、他人の思惟中の概念を同定し得ない、という意味ばかりでなく、丸ごとの他人とは、その思惟が常に器官ともども、最先端にあることで、
それが不可能であることを言うのである。
デイヴィッドソンは言う。他人と自己と公共的空間があるのだ、と。これはこれで観念論を斥けるモデルである。
もし私が考えることができるならば、私は、自分自身の心と似たような心をもつ他者が存在するということを知っており、また、われわれが物体や出来事で満たされた
公共的な時間および空間の中に住んでいるということを知っている。
他者が存在するかどうか分からない、といったナンセンスな懐疑論をとなえることはしない。しかし、私が知っているのは、厳密には、「自分自身という数ある思惟の仕方の
一つとしての思惟の場で、自分が、『自分が挙動している』といった認識が可能な心的挙動を現在進行形の思惟において再演する、つまりそれが可能な心的状態を過去から、
現在を持続しながら過去を参照し、同様の状態を最先端の思惟のうちで過去としての他人を再演する」ということ、これである。そしてデイヴィッドソンに足りなかった
考察とは、心が時間から一般的な、操作可能な或るものとした点を斥けることである。
心は、操作可能ではない。今考えた末の進行形記述は過去系記述の何かを操作され、それが過去に還元不可能であるがゆえに、現在である。この何かとは、
還元された何かに限る。
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いやあ、分哲を論駁するのは難しい汗
どうしてもポストモダンよりな記述になってしまう…
読んでくださったかた有難う。
三要素は、全て表示のための要素であるとするなら、今までの「質は存在のためである」というテーゼは意味をなさない。表示そのものは、存在のためである。なぜなら、
存在は最高の外延であることについてハイデガーに同意するとき、非存在が得られ、それは認知不可能だとするなら、当然存在は認知可能であり、それは表示に依るのである。
ここは表示されている世界であり、もはや表示されていない世界とは、その世界とその存在のために時空質は表示しない、表示されない存在は、形而上学的となるのでは
ないだろうか。すなわち概念が、表示・非表示に関わらず存する、と主張することは、哲学的だろう。あるいは常識から言って、記憶がそれを脳に保存している、という説を
採るべきなのか。その場合、確かに表示は持続されているが、表示は恒常的ではないだろう。従って、表示は失われ得る。表示されない世界とは、想念の世界であり、
これはたちまち懐疑されてしまう。脳が表示するが、その仕方は二重表示であり、一方は眼前の光景で、もう一方は想念の光景である。想念もされない対象は、表示すら
されていない、と言っていいだろう、若干の観念論を含むことを許せば。というのも、脳が光景を構成するのだし、眼前の光景でもそうなのである。その時の脳の状態、
内包―外延の状態が、光景の輪郭を隔て、それらの説明を暗黙裡にしている、可能である。この外延―内包状態が柔軟に動き回り、それが光景を説明し、説明が想念を
必要とするに至ったとき、脳は想念を展開する。この光景を自我や想念のリレーが維持しないと、再発見されるまでその光景は表示されないであろう。そのとき、それでも
その光景は存在すると言うべきか。否、光景は存在しない。では光景中の存在、光景中の光景はどうかというと、これも同じ理由で存在しない。光景を広義にとって、
概念を展開可能な場所と定義すれば、表示されていない概念は、存在しないことになる。この場合の表示は、脳内のスクリーンにて表示がなされ得ない概念の表示のことで
あって、光景とは、ある思惟のある概念の現場である。一つとして同じ光景が無いとするなら、概念の同一性は、掲げた名に、蠢く意味をもち、従って概念はその名や表示
のみが同一性を保つのである。
意識は、想念と現実光景とを往復する。夢は、現実光景に対する極ではない。というのも、夢は想念の体系を完全には破壊しておらず、従って夢の先に、想念がそこで
解かれるカオスが有ることになる。それはもはや認知不可能で、夢はいくら二元論的でも、つまり意識と外在とが現実光景に対する意識と外在との関係を維持しているのだと
しても、それは不思議なことだ。なぜなら、外在に対する観念としてのクオリアが、外在に対さず、観念に対する観念となるとき、起こるのは、クオリアはどこにあるのか、
という問題であるからだ。脳の初期体系において、間隙を外在経験から埋めてゆくとき、起こるのは、位置による機能が、それぞれ間隙にそのものの解釈ができるような布陣
を敷く。これは都合のいい解釈だろうか。しかし脳は、未知のものを観念づける習慣をもっているので、「それが未知である」、と結論するまではそれを未知のままにして
おかない。従って、脳内で完結する世界とは、つまり夢より以上の状態とは、全てが解釈されているのである。その解釈の歪な観念性、関係性、連関、連想、象徴化などが、
夢を現勢態にとっては不可解なものにする。
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最近自分の哲学が思うように進みます。今回はクオリアについて。一日で書き上げました。
実を言うと、ニューロンとは、そこに一つの意味が宿っているのではない。ニューロンが表現すべきは、関係性であり、色のついた関係性である。領野によって
異なる機能とは、この色に由来する。ニューロンの隣接の必然性は、それが定意味でなく、自由にシナプスを結べるよう、まさに関係性―どんな不可能な関係性も
その純粋さにおいては見出せないのだから―であり、シナプスとは更新可能な情報の肉化である。ある定式が、複数のニューロンを経由する、とする。記述される関係性は、
数もたかが知れているので、そう多くのニューロンを使う必要はない。ただその機能的領野、その機能が割り振られるのは、同一の思考が複数生成するのを避けるため、である。
ニューロンは過剰に質を持っており、ある関係がその用いた色によって理解される。この色のあることは、脳が延長であることとある面では同義である。すなわち、それは
関係を空間的に広げず、色によって記述することで思惟が可能になる、という面である。しかし同義でないのは、色は特に思惟にとって必要がない、過剰なものだという事である。
ニューロンは、細胞体から飛び出した定数の樹状突起を持ち、そこに他の神経細胞から入力信号が加わる。この信号は純粋に性格であり、入力信号は、興奮性か、
抑制性のどちらかであり、神経細胞の電位が一定になると、軸索へと電気パルスが発生し、末端のシナプス結合から化学物質が信号として接している神経細胞に伝わる。
樹状突起へのシナプスがそれぞれ異なる電位を持っているため、あるシナプス結合では細胞は未だ発火せず、あるいは常に発火している、という事態が生ずる。
するとニューロンは、ある一定の情報を握っており、それが次の文脈へと情報を流すか、流さないかである。ニューロンが表現しているのが、関係性だとすれば、
ある関係が、被入力を待っている。その関係とはなにか。どこで最低の意識たる志向体たるニューロンの、志向先が埋められるのか。関係は重なっていく。
世界を生きるために必要な把握すべき諸関係は、全て表現されうる。関係の端緒なるものがなく、ニューロンは個別にいつでも発火できるように、つまり先・関係を
いくらか必要としない、複数の論理系列を持つ。入力元のニューロンが、複数であればこそ、この単一のニューロンの動かぬ関係と、この一連のニューロン群の異なる文脈が、
可能なのである。一連の論理が作られるわけだが、その肉となる情報は、論理が握っているのだ。ある単一の論理体(つまり志向体)は、自ら充足する。その可能は、全ての
概念は無数の関係性からなり、その像も、また無数の関係性からなる―という意味は、色という関係性は、何かに対して違うということ、光の反射率が違うという純粋な論理性
であり、色を認識するとは、反射率の違いを脳に理解させるということであり、その由来は、色ニューロンの仮説から、である。
全てのニューロンは、色(ないし質に組するもの)を持っている。それは、空間配置されたニューロンが、その空間の配置の違いを、機能に負っているので、機能毎に
異なる論理パターンがあることになる。そのパターンの集合が、脳の形状、あの形状の領野に機能的に割り振られ、処理を円滑なものにしている。
さてニューロンは、一つでも色を持つニューロンがあるとすれば、それはその関係性において、隣接するニューロンもまた色を持つはずである。関係性を信号で伝え―
最低の論理信号は、ある項が志向先を開いている、という状態―そのとき、その信号に含まれる全ては、空間配置、他のニューロンの介入、が異なるので、
違う作用を次のニューロンにもたらす。それだから、最初の色があるならば、他のすべてのニューロンもまた色を持つのである、あるいはむしろ、いちいち新しく色を生成
していくのである。ニューロンの配置上、一定色を持つニューロンの軸索先は、近似した色になる、色を反射したその対象の近接性が、一連の色彩論理を作って、像を作る。
魂は時に触れ、時に、時の提供するイヴェントに、それが記録がために、細かく、いよいよ記録体として完全になってゆく。
魂に記録されるとき。「書く」とき。魂に。
それは、その書きこそ真であって、書かれている事柄は、書かれている媒体は、書きに一体をみる。
書きその瞬間に、事柄と媒体は、無限に連なっている媒体―事柄を書くのはなんという媒体だ?
そして書きその瞬間に、媒体は媒を去られ(書きは二重の媒体の接触であり、媒性格を接触において失わせる。体だけが残る)、
体のア・プリオリな延長性が延長を貫通してゆく。つまり体は二重であって、触れる―書くときに、ア・プリオリな延長を同じくする。延長はずっと連なっている。
書かれている「私は存在する」という、まさに書いているうちで存在を書いている(存在させている)という現象は、どちらの媒体から来たのか。
しかし書かれる材質は、何かを伝えるのか。「私が存在している」と。書くことで、書くものは存在するが、書かれるものもまた存在を告げるのではないか。
しかし疑問は募る。書くものと書かれるものの存在主張の差異とは。書くことはいずれにしろ、「私は存在する」である。
その場合、書かれるが、書いてしまったら、両媒どちらがそう書いているのか、どちらが真に存在するのか。確かではない。
確かなことはただ、「私は存在している」と書かれうる何かがあったということ、媒のうちに、媒が自らを触発したかもしれないこと。
その場合、もはや「媒」と言えるのか。なぜ書かれうる何かが確かなのか。
書かれたものは、その確かさにおいて、不完全である。そう、既に書かれてしまったならば。
「私が存在している」も、また。それが書かれるとき、書かれた事実は確かでない。
今まさに書いているという事実、仮にも生きているならば、生を書く、生きて「いること」を書く、生きていることは、書かれる媒に、
書くことが生きている。あらゆる確かでない挙動のうち、唯一、「私が存在する」を含む挙動。
それだから、書いているその瞬間、過去を背負ったその瞬間、つまりそれがたとえ虚構でも、記憶が引連れた以前の書きを踏まえた書きその瞬間を、「生」とするものである。
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最近ジャン・リュック・ナンシーとジャック・デリダのフランス哲学の二巨頭にはまってます。
自然、僕の哲学は影響受けてます。
ハイデガーの「存在と時間」を解釈する
哲学カテでやってます。
おそらく有名な哲学書の中では最も晦渋な著作である「存在と時間」を、
自分なりに解釈して見せます。
あらゆる過去は、今この意識した瞬間に、陳列されていて、果たして事実であったのか?
この意識した瞬間と言うが、この瞬間になにか大いなる自然の営みが、意識に知れず
営まれているのはないか?
ある概念を見直し加えられた手を除いていくことには、二つの手段が用意されている。
第一に、その概念に付きまとう日常性を、取り除くことであるが、
その際なにがどこまで日常であるかは、その説明が日常性を完全に剥がれた概念によって
なされる。
第二に、手元にある材料から、概念を言わば組み立てなおすことであるが、
それと既成の概念との一致は、基本的に行われない。
手元の材料が既成性を持っていないのであれば、そこから組み立てられた概念は
日常性を脱す。
しかし概念「である」「これ」が、日常そのものであるので、概念が日常性を脱す、
という言い回し自体誤っているのかもしれない。
しかし非概念化が行われて、得られた産物に、名前をつけることは許されよう。
しかしながら、ここで、概念という言葉に捕われすぎてはいないだろうか。
概念が、その指示する内容を持つとき、内容は傾向される。
すなわち、意味性、外延性などに。
ここでせっかくなので、意味性と延長性についてちょっとした話をしよう。
過去とは実際にあるのか?
あると思われた過去はすべて脳の産物だとしたら?
実際デジャブという現象がある。
この瞬間だけが全てで、過去も未来もないとしたら?
また、この瞬間に、私は意識できないけれども(時間は止まっているようでも)、
様々な営みが営まれていたら?
こうした妄想の産物が、下のスレを生んだ。
★★★ 時間論 Part1
・判断と必然
★★★判断と必然★★★
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1175603633/l50
これについては、真っ先に論じられなければならない。
例えば「美」をとっても、美が必然しているのか、判断されているのか、は非常な問題である。
必然とは、こうだったら、こうなる、ということであり、
しかし実際のところ、そうなっているだろうか。
「こうだったら」、は必ずしも「こうなる」を導くとは言えない、
「こうだったら」は、それ以前に「こうである」であるし、「こうである」は、そのままでも結構である。
「こうである」は「こう」と言っているのだから、何かを表しているのだろう。
するとその表すものが、「だったら」か、「である」かを決めることになるが、
それは判断によるものなのか、これまた必然なのか。
それが必然であるなら、表す「こう」が、
一般に「だったら」に対応すると、それはさらに「だったら」に導かれており、
それは最初の「こうである」とは別に「こうなる」かそうでないかの選択が
さらに必然するか判断するか、である。
「こう」が一般に「である」に対応すると、それは「だったら」でも、
「である」でもどちらに導かれても良いが、やはり別にそれぞれ「こうなる」
かそうでないかの選択がある。
2ちゃんとザビにスレ立ててみました。
両者の反応が楽しみ♪
あらゆる事象は、イメージと互換している。
それは、あらゆる事象は、イメージとして表せる、あるいは
すでにイメージである、ということであり、また逆に、
あらゆるイメージは、事象をいろいろ想像させることが可能である、
あるいはすでに事象である。
イメージが事象であることと、事象がイメージであることとの差異とは、
さしあたりイメージを持たない事象は想像できぬ、ということである。
イメージは簡略化されることもあるし、過度に装飾されることもある。
これは科学以前の事実である。科学は人間とその外とを隔てる。
科学に対立するかにみえる観念論もそうである。
その一部
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果たして、人間を取り去ったところにはなにが残るのか。
カント以来、哲学者は観念論から解脱することに腐心してきた。
しかし世界ー感覚ー心という構図を先入していれば、観念論に至るのはむしろ
当然であって、これを回避するには、この構図の破壊を第一にしなければいけない。
「最初のものは更新される」メルロ=ポンティ
フッサールはエポケーをもって「最初」に至ったと信じた、だが我々はもっと多くのものを
疑っていって、すると行き着く「最初」は、意味の網である。
メルロ=ポンティの科学哲学における積極的な意義は、我々が物に与える「意味」
及び物相互の「意味」を説いたことであった。
与えるべき意味がまずもってなければ、我々はどうして物に意味を与え得るのか、
と前者に対してはこう言おう、すると後者の物ー物という構図においても、彼の説いた
延長的な意味だけでなく、質的な意味が必然する、ということになってくる。
まだまだ続きます。この論の行き着く先は、シュールレアリスムの音楽における実現であって、それを皆の前で演奏します。
ー君は一方だけを見続けているね
ーだって私は、自分では動けない
ー君から見える世界は、どんななの?
ーそれは、自然的に純粋に?哲学的に純粋に?
ー私が来る時、運動が、見えるだろう。
ーまたそうやって私を利用する
あるがままを記述するーしかしそのあるがままとは、
この花の言うように自然的態度から、あるいは哲学的態度からさへ、
離れなければならないのか?−
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このことに反発して、世界が揺れ動くものだとするならば、
世界は常に問われなければなるまい。
というのは、問いこそがその揺れを権利し、逆に断定は揺れを義務せねばならないからだ。
「何が世界か?」と問うとき、それは既に「世界」である。
「世界とは何か?」と問うとき、それは既に「何か」である。
世界は「世界」であってはならぬし、「何か」ですらない。
それは、「世界」とは都合の良い現象学的表現に留まるものであるからこそであり、
また「何か」であるとは、世界は既に、提示されるべき「何か」では、
あり得ないからである。換言すれば、世界は、
問われるものとしての何かで既にあるので、提示される「何か」は何一つ
問いを満足させないからである。
だからここで、「世界?」とただ問おう。
「世界」はそれ自体として無限の一領野であるか、ないか、であり、
さらにそれが世界であったとしても、どんな世界か、がまだ未決定のままであり、
従って、この問いは無限の有無の解答としての無限なのである。
このように、無限をいかなる記述に対しても残しておくこと。
いかなる解釈にも解釈の無限を見せつけること。
こうしたことが必要になってくる。
真っ赤な浮浪者が右から、
真っ青な浮浪者が左から、近づいてくる。
赤が、右耳にそっとささやく。
青が、左耳に甲高く叫ぶ。
うるさい。
しかし街に住むのは、赤や青だけではない。
様々な色彩がぎりぎりのところで、平衡を保っている。
少しでも何かを欠いたら、全てが瓦解してしまうかのようにー
それだから私は、何にも触れない。
ただ何色かに染まることを、避けるだけー
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以下は、文化人類学のためのレポートです。
しかしどこが文化人類学なのか。でも単位が取れればなんでも
良いのです。
「態度変容-世界-人-私」
斥けること。それは前提を犯すことと同罪である。
前提を斥けるという営みは、前提を過程とする。
始め前提されたものは、斥ける段階において、
斥けられた結果が次々と生まれていくはずであって、
それは生まれた時点では先入ではないけれども、
それを考える段になるとたちまち先入性を帯びる。
次々と生まれていく、この作業を億劫するのが現象学
であり、「括る」という強引な、さらに言えば観念論的な
過失を犯すのである。
斥けることを徹底するとは、前提、先入を超越として括ることであるが、
括る営みが、それが私にせよ、「括る」自体にせよ、
によって遂行されるものであり、また、前提を括る作業とは、
前提を一つ一つ、によってから超越させていくのではなく、
終極的な「世界」に全ての前提が包含されているがごとく扱うのであって、
この前提の一つ一つが世界に包摂されていく過程として、世界は少しも
動じないのであって、それだから「世界」という表現が許されるのである。
無限の人が落ちていく。
無限の物が落ちていく。
私は壁に生えた現在につかまると、
しばし考える。
ー初めは、一つだったのか?
複数だったのか?
無限の人が昇っていく。
無限の物が昇っていく。
一人の蜻蛉の形をした頭蓋骨が
私に近づき、ささやくー
___________________________
経験が私たちに与えてくれるのは、
いきいきとした現在のみです。
それを越えて過去や想像に話が及ぶと、
それは経験されないもの(経験とは現在なのだから当然)、
しかし現在の経験に付帯しているもの、
が「地平」という言葉で表されます。
具体的な経験に対し、それに伴う地平は一般的であり、
無規定的です。というのもそれは経験されえないものだから。
続く。
花は枯れ果てた。
紅の炎に踊る花びらの次にそれが見せるのは、
形態を超越した灰色が、それが本来あった方向を超越し、
従って花をも超越した、大気でも物体でもない空疎な超越性である。
焼けた花弁が灰色の大気を昇り、それが天空にあるという
死後の世界の存在を予感させる。
・・・行ってしまった。
しかし私は見た、炎の遊びにぐちゃぐちゃになった大地に、
新たな形態が必死で形態を得ようとするその努力をー
________________________________
最初の明証的なものとして、「世界が現にあること」、
を挙げたくなる人も居るかもしれません。
しかし世界の与えられ方は、常に感性的であって、つまり感覚を通して
与えられるのであって、このような感覚を明証的なものとしないことは、
デカルトすら「感覚はときに我々を欺く」と言っている通り、
当然の事のように思えます。
諸学問は、世界の前提の上に成り立っています。
科学とか、心理学とか、古典的哲学さへ。
これらの学問とは違い、世界を前提しない、これが現象学のユニークなものです。
さて、私たちは、世界を通用させません。
これを世界への「判断停止(エポケー)」といいます。
すると世界内にある、他者も通用させない事になります。
この「通用させない」私は、ものを反省してこれこれは感覚的なものだから
通用させない、とするこの「私」は、何ものかであるわけです。
世界及び世界内にあるものは、それ自体で存在するものではなく、
全て「私にとっての現象」となります。
また私も、全ての現象から解き放たれ、純粋な自我となります。
続く。
一番の大きな音が鼓膜を激しく振動させた。
同時的に覚える、肩への激しい熱さ。
血。
私は撃たれたのかー
膝をつく私の耳に、無数の穴を開けた友人の
レスタティーボを聴く。
ーどうだ、見よ、この醜い私を。
ははは、神の創造物か。
本当に神が創造したのなら、なぜ私が醜くなる可能性を、
いや何故醜いという観念を植え付けたのだろう。
デカルトが完全性を神の存在基盤とするならば、
私は不完全性を神の破壊のために突きつけよう!
全てのものが集う場所?
全てとはなんだ?全ての先にはもはや何ものもないのか?
集うとはなんだ?存在間の距離が相対的に縮まる事か?
場所とはなんだ?空間が実在として実在しているとでも言うのか?
ははははー
今や私は、死の際の友人の最後の悟りが流れ込むのを見つめる。
悲しいかな、私は彼の言葉を一字一句否定できる。
それは彼にとって、肉体の死以前の死である。
否定された彼。死にゆく彼。
嘲笑と共に崩れ落ちた彼は、今ではどこかに咲いているのだろうかー
________________________________
フッサールは学問を2つに大別します。
文化としての学問、真実かつ真正な学問。
そして前者のもつ、過大な要求、つまり事実性を超越した、
事実以前の学問、これをフッサールは目指します。
ある判断があるとします。
それがいったん基礎付けられると、繰り返しそこに立ち戻ることが
でき、つまりは自分の所有物とすることができます。
こうした諸理念の先にある学問、すなわち絶対的な基礎付けに
よる一つの普遍学、全ての学問に先立って在る学問を目指します。
そこで立ち現れてくるのが、「明証」と言う理念です。
明証とは、思念と、思念されたものとの一致であり、
完全な明証とはそれらの完全な一致です。
つまりは広い意味で、ひとつの経験ですね。
思われたものが、まさにそれを思うことと一致する。
これが経験の構造です。
そしてフッサールは、明証的でないものを一切通用させません。
しかしここで、絶対に明証的だと言い切れるものとはなんでしょうか。
これは次回の問題とします。
一面の赤い花と、白地に滲む赤い血。
それを囲む真っ赤な炎。
あなたは真紅の中にあって、一段と華やいで、一段と赤く、美しかった。
倒れる君。
花は優しくあなたを包み、あなたの死を祝福していたね。
そして、ああー
空が赤く染まる。
巨大な赤が、私にも及ばんとするー
__________________________________
フッサールは第一哲学、つまりそれ自体で最初の哲学を
目指しています。
デカルトが行った転覆、すなわち、
疑わしいものは全て退けるといった姿勢、この姿勢に
即して、デカルト的誤謬を慎重に避けながら、
フッサールは省察します。
デカルトが幾何学的な絶対さをその哲学の
基礎に据えたのに対し、フッサールは他のあらゆる学問を
学問のサンプルとして通用させません。
これこそ全ての先入観を排そうという態度なのです。
第一哲学を指導していく理念、次回はこの問題に触れたい
と思います。
今日も私は花との会話を楽しもうと、島へ向かう。
エスカレータの乗り継ぎを、辿って、
哲学に思考を奪われながらー
-最初の物はそれがいくら分裂と合体を重ねようとも、
最初のものとしての可能性を保つー
無気力な海と一面の灰色に鮮やかな花と島が、
霧に次第にはっきりとしていく中、
君はそこにいたー
______________________________________
皆さん「デカルト的省察」は買いましたか?39ページです。
ご安心を。局所的な解釈を終えたら、章ごとの主観的解説を
したいと思います。
「私たちは果てしない無限の、学問以前の経験と明証をもっており、
それらは、完全なものも不完全なものもある。
そこで不完全というのは、ふつう、事象ないし事態そのものが
与えられる際の不十分さ、一面性、相対的な不明確さ、不明瞭さを
意味しており、それゆえ、経験が、充足されていない予備的思念や
付帯的思念といった要素を帯びていることを意味している。
他方、それが完全になることは、調和的な経験が総合的に
進行し、これら付帯的思念が実際にそれを充足する経験へと
至ること、である。」
事象ないし事態が与えられることが、経験といわれるわけです。
その与えられ方が不十分だと、それは完全な経験とは言わない。
その不十分さを、付帯的思念、予備的思念といいます。
与えられた事象の不完全さを、思念が補っている。
つまり、経験が完全になることは、その思念が一掃され、
つまり充足され、経験自身となること、です。
「君は信じるか?全ての惑星、いや全ての物質、
全ての現象が向かうところのあの場所を。」
死んだ友人の言葉が意識をかすめる。
全ての人々の希望は、そこにあった。
略奪と喧騒と暴力の中、皆が共通に抱いていた唯一の希望。
悪い、と今日も私は友人に謝る。
私はそんなところを信じないー
___________________________
さあ皆さん岩波文庫のフッサール著「デカルト的省察」を出して。
持ってない人は買いましょう。そして一緒に解釈しましょう。
さあ31ページを開いて。
「場合によって単なる判断に対立するのが、
卓越した仕方で判断しながら思念すること(判断しながらかくかく
しかじかと意識していること)であり、これが明証と呼ばれる。
明証においては、単に事象から離れて思念するのではなく、
事象が「それ自身」として、事態が「それ自身」として現前し、
判断する者はそのことを自覚している。
それに対し、ただ思念しながら判断することは、
それに対応する明証へ意識において移行するすることを
通じて、事象や事態そのものへ向かっている。
この移行はそれ自身、単なる思念を充足するという性格、
思念と事態の合致という仕方での総合という性格を持っており、
それは、以前は事象から離れていた思念の正当性を明証的に
自覚することである。」
うーん、長いですねえ。でもここは焦らず、ゆっくり解釈していきましょう。
判断すること、は、かくかくしかじかとただ思うことです。
判断(判断されたこと)は、思念されたことです。
判断しながらしながら思念することとはなんでしょう。
それは、ただ思うこと、を思うことです。
つまり、その思うことを、意識しているわけです。
さて、思うこと、を意識するということは、
思っているままではいけませんね。
思っている自分から、離れないといけないわけです。
つまり、判断が、それ自身として、思っている自分の前に、
「現前」しているわけです。これを明証と呼ぶのですね。
では思念しながら判断すること、とはなんでしょう。
それは、事象を思念しながらも、ただその思念されたことを思うことです。
それが明証を目指すなら、思われたものを意識する必要がありますね。
思われたものを、現前に持ってこないといけませんね。
なぜなら、それをフッサールは明証と呼んだのだから。
思念と判断とは、離れています。
事象や事態を現前に持ってくるために、
つまり思念を思念されたものに合致させるため、意識に乗らないといけません。
そして意識の上で、思っていることが、思われていることに近づく、
思われていることが思っているものの現前にあるようにする、
これは空疎な思っていることが充足されて、
思われていることと合致するという、2つの総合という性格を持っています。
そしてそれがなされた時、思念は判断と合致し、明証となる
わけですね。
今や、現象世界のうちに、否、
自ら現象世界とならなければならない。
全ての思惟や感覚を世界としての記憶に通用させず、
純粋に世界としての自分の体験の記憶を紡いでいかなければならない。
世界を知るとは、この方法でしかなされないのであって、
思惟や表象に空間や時間が存在するのか、
という問いは、この世界としての自分の体験を以て解答されよう。
世界は思惟や表象のある場所、に滾々と流れており、
まさにこれを捉えようとするのだ。
その際、場所はどこでもいいのか。
宇宙があって、より宇宙的な場所、より宇宙的でない場所
などといったものが存在するのか。
しかしこのことを認めるとしても、世界を体験するその場所
は宇宙であり、どこで世界としての自分を体験するとしても、
全く問題はない。
しかし体験されるのは、純粋な世界としての自分だけなのだろうか。
純粋な、自分だけが体験されるのではないか、
という疑問も起こってくる。
また感覚や思惟を通用させないことが果たして可能なのか、
その問題は古典的自我論に譲ろう。
作用界、という世界が導出されてしまった。
この世界は世界であるが、どういった世界であるのか。
もしも私たちがそこに居る、と信じる世界であるなら、
作用界という名前を冠する必要がない。
であるから、その性質を考慮しなくても、
この世界はユニークでなければならない。
ユニークであるとは、どういうことか。
ある世界が、他の世界に完全に囲まれて、
なおはっきりと見えるならば、それはユニークである。
あるいは、ある性質をその世界に与えたとしても、
その性質を持つ世界は無限に想定できる。
すると性質を与えるという仕方では、
その世界のユニーク性は得られない。
しかし、世界を完全に複数の性質で説明したとして、
その性質の多寡、その性質それぞれの決められた大きさ、
を以てユニークとするならば、それは十分ユニークである。
それだから、性質とは多寡を持つものでなければならない。
例えば、空間と時間とエネルギーをこの世界にユニークであると
主張するならば、それらを全て形容詞に転じ、
自由に操作できるようにしなければならないのだ。