卒論書き終わったぁぁぁぁああ

2009/12/16(Wed) 15:18 Category: 課題
目次

第一章  芸術の定義と、認知論への誘い
第二章  認知論の展開
第三章  認知論からの存在論
第四章  時間、分析と、新しい芸術

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心脳問題の解決や、「時間とはなにか」というテーマに挑み、新しい芸術への道を拓いた、と信じる。
芸術学演習の講義で、次回までに「芸術とはなにか」を書いてくるように
言われました!いやあ、これはテンション上がりますよ。
早速芸術とは何かについてスケッチしたいと思います。

芸術とは、感覚を超えた、感覚の総体であり、というより、
人間の生物学的便宜のための与えられた事象の分別を超えたところにある、
ひとつの世界なのです。
世界の定義、これは難しい。我々がいる世界が唯一のものであるとは
断定できない、我々のある世界とは異なる様々な世界が想定できます。
私たちの住む世界は、空間と時間とで、全て説明し得てしまいます。
それだから、空間と時間を持たない世界と言うのも考えられる。
そこでは空間性、時間性を持つ現象は存在し得ない。
世界として最低限の世界とはなにか…という問いは置いておいて、
では芸術の世界とは我々の住む世界とどう違うのか。

芸術は、悟性によって部分に分けることができます。
しかし部分に分けるというのは悟性の便宜に過ぎず、
別に分けなくとも良い、しかし芸術を説明するとなると、
悟性の欲望に従わざるを得なくなります。
この時、悟性の機能に惑わされてはいけません。
悟性は機能を持ちます。これに誘惑されると、真実は大きく
捻じ曲げられてしまう。

さて、芸術を部分に分けましょう。
もともと全体でしかありえないものを部分に分けるとは、強引な行為です。
それだから芸術を部分に分けると、ひずみが生じます。
それはキレイな断片をなしてはいません。
部分と部分とのつながりは、時間的にもエネルギー的にも歪められます。
時間は先を急ごうとあられもない姿を露呈し、エネルギーは収束または
拡散しようとアンバランスな醜態を見せます。
そしてこの時間とエネルギーが醜くあればあるほど、
その作品は芸術的なのです。
絵画においても、優秀な鑑賞者ならば、そこに時間性を見出すでしょう。
全体の中で、淀みなく流れていたエネルギーや時間が、歪められてしまう。
しかしこうして部分に分けることによって、初めてエネルギーや時間は
姿を現すのです。

芸術の説明としては、ベルグソンの「持続」の観念が綺麗に当てはまりま
す、すなわち、それは進行しつつ、ニュアンスを振りまく。
エネルギー、時間、芸術におけるもう一つの要素が、ニュアンスです。
ニュアンスは、芸術心理学においては、「色彩表象」と呼ばれている
ところのものです。
芸術が、なぜ五感のうち、視覚と聴覚及びその融合の内に落ち着いたか、
そのことで先生の全く的を外れた拙い講義がありましたが、
それは、聴覚と視覚とが、ニュアンス的な素材を持っているからなのです。
明るい色、これは明るいニュアンスを表現し「得る」。
長調、これは明るいニュアンスを表現し「得る」。
素材の持つニュアンスを、力学的エネルギーの操作に伴わせ、
自在に広げたり縮めたりする、こうして芸術は無限的なニュアンスを
獲得するのです。

しかしながら、芸術の持つニュアンスが、このことだけで説明しきれる
わけではありません。ここからの話はいささか神秘主義的になります。

私たちは、「理性」と「スルメ」を、同時に考える事ができます、
つまり、抽象的なものと、具象的なものとを、同じ場において
考える事ができます、それだから、我々は概念を持つ。
さて、ある概念から離れてみましょう。
ある概念をなんとなく思い浮かべる、すると表象されるものはなんですか。
それは、その概念がそうあったような、そんな気がする、そんな感じです。
そんな感じ、これは感じです。概念の緻密な組み立てによって生じたもの
ではない、そんな世界が、我々の内にあります。
例えば、任意の感情を取り出して見ましょう。
この感情から概念性を一切取り払ってしまえば、それは感じです。
芸術家は、その感じを、素描するのです。
これは印象主義や表現主義によってイズムにまで高まりましたが、
そうでないイズムにおいても、事情は同じなのです。


ふう、疲れた。まだまだ書き足りん。続く。
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