「人間とは何か」は、経験からは得られない綜合的な問いである。彼は、彼を余すところなく規定している周囲環境と、周囲環境を余すところなく規定している観念論的な
自我に、挟まれている。そして思惟とは、それ自身では純粋である。つまり、環境に対して思考し、発話する行為は第一次的操作である。彼は、オペラント行動をとる。
オペラント行動とは、あらゆる行動であり、それがある対象に対して意味をもった瞬間、その行動は有意味だとして保存される。この行動は、徐々に抽象化されていく。
漠然とした運動がとる対象はやはり漠然としており、その漠然とした現象群に対して同じ行動を取る、と言うべきだが、全く同じ対象の在る環境は不可能なので、
ここで成長は止まるはずなのだ。しかし、運動のパターンは形状からアプリオリに決まっており、するとそれが世界(内面的世界、外面的世界の分枝がない一元論状態)に
対し、ある反応を引き起こす。それが身体の現象であり、彼はまず身体を経験する。もちろん身体そのものを経験するのでなく、身体に付随した現象を経験するのである。
するとここでの構図は、まだ外的対象と身体とが未分枝の一元と、行動をする原理である底知れぬ内面の一元と、それらを感じ、観察するという一元との三元論である。
行動が抽象化する過程とは、なにか。
また、運動のパターンは、二方向の形状から決定される。つまり、世界のほうにある形状に対し、身体が取れる行動が決まっており、同時に身体の先天的な形状に対し、
身体が取れる行動が決まっている。心理は、そのように決まっている身体に行きわたっており、また決まっている世界を決まっている身体で感じ取るというその世界が、
身体における世界であるとするのなら、最初の世界をどう得て、どう捨てるのか。心理は、また決まっている操作でもある。数学的記号を便宜上借りれば、
物と物とを等号で結ぶ操作は、最初は、外的世界から離れて、心のうちだけでそれら二物を借定できない。ゆえに心に在る対象、つまり像と同時に教えられた記号、の発音、
ないしそれ未満のなんらかの印象、と、外的対象とがイコールで結ばれるとき、一つの論理的操作はなされている。しかし、彼は発音しかしない。その発音と対象を結ぶ
操作が、文以前にあるはずだ。対象は、正確に外部のものでは有り得ない。つまり像であり、写像であるが、原初状態では、写像を外延―内包関係には捉えられないから、
写像は直接心のなかに入ってくる。つまり、なんら論理的操作を経ないから、それが人間学的あるいは生理学的な限定を受けて、写像と化したその像が、外延―内包以前に、
その幼児の内面と一致する。この一致の体験は、成長したものにはついにおこらない。その一致、という操作が、その写像で彼が在った印象を残し、それで、すべてに対し
印象をもつ幼児の、心理的オペラント行動というものが定義できる。つまり、彼は常に何らかの印象をもっており、それがある外的対象に対して意味をもった瞬間、その印象
は有意味だとして保存されるのだ。
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人間とは何か。これ、芸術に直結すると思うんです。今書いている小説も、人間とは何かが
テーマです。彼女がいるのに、DSのラブプラスにはまってしまった…