無様

2010/03/02(Tue) 20:28 Category: サヨナラ
医者に言われて、抗鬱剤を三分の二に減らして二週間、猛烈な鬱が襲ってきた。
勉強が一秒もできない。作曲もできない。
何もできないから、寝るしかない。
今日は20時間寝た。聴ける音楽は、GARNET CROWのみ。
思えば、一昨年強い鬱に見舞われたときも、救いになったのは大好きなクラシックでも
V系でもなく、ただ唯一GARNET CROWだった。
何か安心する。でももうだめだ。明日が見えない。絶望しかない。涙も出ない。
疲れた。死にたい。
しばらく来れなくなりそうです。

理想の最強バンド♪「khanate」

2010/02/16(Tue) 23:02 Category: HR/HM
khanate:skin coat

http://www.youtube.com/watch?v=eNGwLTPEhyA

最近、歳を感じたのか、重く暗い音楽を好むようになりました。
自然興味対象はドゥームメタル。sunn 0)))もいいけど、あそこまでメタルを否定したメタルでなく、
メタルを極めたメタルを聴きたい。そこで見つけたのが、KHANATE(カネイト)。
sunn 0)))のメンバーでもあるスティーブン・オマリーが参戦しているという…
もうね、これ、理想の音楽です。ノイズは血しぶきのように鉄の味がするし、Voの声は血管を裂くよう、
重低音は臓腑を抉るよう。
得られる音楽は、音による地獄絵図のごとき。
音楽を愛するあまり、音楽で殺されたい!
音楽でストレスを感じたい!
音楽で暗い気分になりたい!
という真性ドMの人にお薦め♪
ちなみに最近の勉強のBGMは、ドゥームメタルです。
やっぱり遅く重い音楽は集中力をかきたてますね。
デカルトのテーゼ(我思う、ゆえに我あり)が意味するのは、
「我「が」思「っている」ことの認識であり、その我が思っている当の志向対象が思われているが故に「存在」しており、

その存在が、「我」と一致している」ということなのである。つまり思われている志向対象は、
我が思っているがゆえに存在しており、「思っている我の存在」と直接イコールされるまでは、我とは別個に存在している。
つまり「我」は思われてもおらず、その存在に関しては
何一つ言うことができない。ゆえに「我」は無意味である。
思われた志向対象が、思われているがゆえに存在し、ゆえにそれを思っているものが反射的に存在する。
これが「被志向性」であり、しかも逆分析的でもある。
というのは、もし「我」の意味が「思っている」ことからいずれ帰納されるのならば、
まずもってアプリオリに確かなのは「思っている」ことであり、思うことは、何かを思うことだ、
とすれば、思い得るものの全体性を分析したのである。この分析性を限りなく0に近づければ、
「思う」ことは思う内容を欠く、つまり志向性をもたない「純粋思考」となることが期待される。
しかし、それは理念ごとであり、完全な抽象世界の空想にすぎない。なぜなら、「思うこと」とは、
パルメニデスの「あらぬことはあらぬ」テーゼに従うと、思わないことを導くために
思うことがまさに必要なのだ。そしてその時点で、何かを思わないことは、思うことを前提しているのである。
二項対立「思考」と「無思考」は、私が存在論的に「思考」的であるがゆえに対等に存在しているのではない。思考は、それが絶対あるが故に志向対象を借定し、その借定した対象の
延長性から言って、延長を組み上げていく営みでもある。
思考が絶対に分析的ならば、世界の総体が静的でも動的でも、世界は一義に決まらない(なぜ?)。
思考を中心として、志向対象が世界を、「世界の分析」的に存在させているのだとすれば、
志向対象を分析することで、それは思考という営みの分析にとどまり、思考以上の志向対象は
永遠に得られないはずだ、といっても、思考自体が何かの延長である限り、思考を分析することは
思考がそこで存在している世界を開示することと同義である。
少なくとも、思考が志向する先の世界があるはずであり、思考が志向される世界があるはずである。
この二つの世界が同義であるかどうかは、結局人間には分らないのか…?
ゆえにデカルトのテーゼは独我論にとどまるのか?

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V系卒業するとかいって、sadie、アンカフェ、メア買ってしまった…
いいじゃないか!たまには邦楽も聴きたいんだよ!

「悟り」とは何かを哲学的に考察

2010/01/28(Thu) 22:34 Category: 哲学
人間がなしうる思考は、二通りある。
ひとつ:分析的思考
もうひとつ:綜合的分析思考、つまり分析された思考を綜合的に回復する思考
前者の究極は、即自である。即自は、外在を否定する一点、一点の直観に限りなく近づくという
悟りである。この境地に達すれば、純粋空間性、純粋時間性に身を置くこともできよう。

後者の究極は、この思惟を綜合的に分析することであり、外在の一片としてのコギトそのものに
なることである。コギトという直観に優れて一致すれば、同一性の直観そのものとなることが可能で、
同一性の直観は限りなく時空0に近づく。それこそが自己の客観化である。
完全な客観化は、自らを宇宙の一部だと認識するだけでは足らず、一部そのものになる悟りである、
とすれば、俺は悟りを上述のように哲学的に証明した。
悟りには、即自状態と客観状態の二種があるのだ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7203430
ニコ動より全曲↑

シュニトケのチェロ協奏曲一番に恋したのならば、この曲も聴かねばならない。
心臓を患い、作曲者が倒れた1988年を境にして、曲の包する暗黒は深まる一方だった。
この曲は、病的な旋律が死の淵を彷徨い、届かぬ光を求め、果てる一連の物語である。
しかしそれだけでは終わらない。この曲は、シュニトケにしては珍しく現代的なのだ。
一番が、新ロマン派の代名詞のように評されることもあるが、二番の晦渋さには理解に苦労する向きもあろう。
短い一楽章、序奏を経て、流れ込む二楽章。抽象的なメロディーと構成とは、シュニトケの諸作品の中でも異様に思える。
金管の高らかなファンファーレを美しく縁取るチェロ、迷路に迷ったような不可思議な音群。
そして終楽章、実に16分を要するこの楽章が、白眉である。
彼の作った映画音楽、「苦悶」からの引用で始まるこの楽章は、調性と無調性が交差し、
秩序は乱れ、安定性は崩れ、音響的に輪郭が複雑で、かつロマン的に徐々に高まっていくというまさに現代性とロマン性の融合をみる。

ロストロポーヴィチ&小澤征爾/ロンドン交響楽団 1991

初演者ロストロポーヴィチによる歴史的録音という意義以外には、魅力のない盤。まずロストロのチェロだが、
イヴァーシキンほどの突進力、鋭さ、攻撃力がないし、かといってセディーンほどの内向性、静寂、瞑想もない。
かつてのロストロは凄かったことを認めつつ、ここではすっかり年老いて力を失った人間の悲しさ以外に聴くべきものはない。
しかし、テクニックは衰えない。四楽章の超絶技巧を鮮やかに操るチェロには舌を巻く。
そしてオケは、もっと酷い。小澤は音楽を刹那的にしか捉えておらず、息が短く、スケールも伸び悩み。
壮絶な音響で魅せず、聴き入るべき静寂を湛えない。終始大人しく、オケの見せ場はない。
ただ、終楽章だけは、このアプローチもありなのか、とも思わせる。解釈が現代的な分、この晦渋な音楽に新たな光を照射しているのも確か。

イヴァーシキン&ポリャンスキー/RSSO

イヴァーシキンのチェロに圧倒される。テクニック面では、細かいパッセージのどの部分も完全に弾き切る。
全体的に速い演奏だが、音の一つ一つに表情がこもり、表現はダイナミックで、狂ったように突き進む。
漸次的に微妙な音色の変化を聴かせるチェロは、人間がいて、チェロをもつ手があって…という人と楽器との媒介性を意識させない。
チェロが直接心と繋がってるかの如くだ。
音は野太く、しかも鋭く、機動力があり、深みもあり、力強く、柔軟で、迫力がある。これこそ、理想のチェロだ、とすら言える。
しかも音色が美しいときたら、もう言うことはない。ポリャンスキーもいつもの鈍感さはあまりなく、なんとか満足できるレベルには
達している。
旋律の線より、響きの空間性を意識したオケは、他の曲では鈍くていらいらするのだが、ここでは成功している、といってよい。

セディーン&マルキツ/MSY

オケとチェロの幸福な融合が聴ける。音量バランスがとても良い。セディーンのチェロは、イヴァーシキンと比べると酷なのだが、
やや積極性を欠く。だが、この曲に積極性が必要だろうか?必要なのは、瞑想と、黙認と、苦悩と、堪え忍ぶ精神だ。
それをセディーンは見事に表現しきる。超絶技巧を聴かせるチェロではないし、また線も細めだが、宙釣りになったようなチェロ、
苦しみの吐露、空間を生み、そことの対比で、旋律を奏でるチェロは、この曲と非常に合っている。明らかに、同じ奏者のチェロ協奏曲一番より
素晴らしい出来だ。加えて、マルキツ率いるオケのなんたる素晴らしさ。響きは明晰で、しかも金管の伸びる音色の扱いは巨匠風。
四楽章の押し寄せる巨大な悲愴は、ポリャンスキーなどとは比べ物にならない。
英語で哲学史読み始めました~
最初の方は古代ギリシア哲学なので、わかりやすい。質問受け付けます。

Heraclitusの宇宙観は、始めがなく、恒久的に変転している「生」の宇宙だった。
宇宙内における差異は、logos(論理)、つまりありとあらゆる変転と流動を司る普遍的理の調和のなかでの宇宙に限られる。
ここに生は、停止と純存在へ言及される際、変化それ自身を失うことのないものとして定義される。
一方Parmenidesは、永遠に存在し、あらゆる運動がそこから生まれる宇宙を想定した。
ここに生は、運動と変転へ言及される際、存在性それ自身を失うことのないものとして定義される。
これら両方の宇宙観は、前者は永遠に始まっている(始まるという運動が変化を通して表現されている)という意味で、後者は永遠に存在しているという意味で、ともに永遠的である。

一方Anaxagorasは、自分自身を存在、また変化とみなす精神としてのnusの関係を定義した。

でSocrates。nusを生と死の関係の想起として定義した。それは、祝祭と静寂との弁証法として、どちらか一方であることは決してないものだ。
生が、魂の不死と輪廻のなかの死の連続である一方で、死は、魂を想起するという生のなかに在る。
一方で、魂が身体と対比されるとき、価値の階級が仮定される。つまり魂への偏愛だ。
Socratesは、死へのみ、真の否定を見ていた。生は想起として死の中に真実を関係づけ、
しかし身体なき死こそが魂の純粋な状態であるとした。
なぜ、想起と輪廻の生の真理を維持することより、霊的な思考への絶対性を弁証法は産むことをしたのか?それは、生は、その弁証法ゆえに、その反極性ゆえに、生が恒常的であるので、
肉体的思考を間違ったものとして前提するから。
長かったです。哲学書を読む合間にちょこちょこ読んでたんで、あんまり思い入れもないのですが、
私はこの作品がなぜ「名作」と言われてるのか、まるでわからない。
悲劇だとは思うが、悲劇としての悲愴感は、ゲーテやトーマス・マンなどのドイツ文豪に比べると、まるで浅い。
構成も「複雑」と言われてる割に効果的でないし、キャラクターの定義も浅い。
全ての悲劇の端緒を、カラマーゾフの血に結びつけるところまではいいが、伏線として弱い。
詩的な表現は皆無、ときおり読ませられる人生哲学は新鮮味なく、心理学と称した心理分析も、
嘲笑に値するほどナイーブ。
最後の裁判の場面で、検察のや弁護人の力の入ったせりふが続くが、事件の背景がまず深くは練られていないので、
自然論説も面白くなく退屈だ。アリョーシャの最後の演説で読み手を感激させるのが
作者の狙いだろうが、見事に上滑りしている。こんな陳腐な演説で読み手は感激しない。
感激させようという意図があからさま過ぎて、不快だ。

それに比べて私の小説は、もっと構成が複雑で、場面場面が効果的な配置をなし、
伏線が入り組み、内容は高度な詩的レトリックに覆われ、容易には近づけない峻厳さをも
持ち合わせている、といったら笑われるだろうか。私はドフトエフスキーよりはるかに
人間に対する洞察が深い、と言ったら?
自意識過剰だろうか。私は間違っているだろうか。私は実は、うぬぼれの塊で、凡才なのだろうか。

祝!ヴィジュアル系卒業

2010/01/05(Tue) 13:53 Category: HR/HM
髪も黒くしたし、顔も若さを欠いてきて、音楽的にも満足できなくなったので、ヴィジュアル系卒業します。まあディルだけは買い続けるが…
で、これからは現代音楽&ドゥームメタルを基底に据え、哲学的考察とノイズを織り交ぜた
暗黒世界を紡いでいこうと決めました。

 そんなわけで、いろいろ参考のCD買ってきましたよ。
まず、「マグダラ呪念」という女性三人からなる和風ヘビードゥームロックバンド。
その名の通り、貞子的な陰湿な恐怖を焙りだす激重サウンドに仰け反る。
「呪って!呪って!憎んで!憎んで!怨んで!私を!呪い殺して!」
という歌詞には爆笑w
でも実際にシャウト気味に歌われると、かなり壮絶な効果を生み出してて感動。
泣きそうになった。恐怖でじゃなくて感動でね。

マグダラ呪念公式
http://blog.goo.ne.jp/babylon666
マイスペース
http://www.myspace.com/magudala

あとは、べたべただけどドローン・ドゥームバンド、sunn ○)))の7thアルバムを買った。
いいね。でもそれほど暗くはない。むしろ耽美的?
それからmerz bow。ノイズ音源の使い方の参考になる。

これらに影響された私は、音楽における革命を起こすに足る素材を揃えた。
ある音楽が対象xの表現状態にあるとき、当然、各構成音は表現の分析音である。
例えば、音楽がある和音を表現しているのならば、構成音の各各が当の和音の分析である。
音が、メルロ=ポンティの表現を借りて、即自状態にあるとき、その音はその音にとって
全体であり、分析の飽和であり、分析の極限であり、もっと正確にいえば、
分析可能性と当の音の即自性との中間にある深淵、そのものの状態にあるのである。

ある持続音の、何を表現しているかの多義性(所属する和音を表現している、もしくは同時的に
所属している旋律を表現している、など)
における被表現の度合、つまり持続音の表現している所属性の度合を、一義に決定できる。
これが、指揮者や奏者による楽曲解釈の深さとか浅さとか呼ばれるものである。

即興とは、作曲点において、ある現在音が未来に渡るある表現の分析であるとき、
その音を限りなく現在に収束させていくと得られる音楽的概念である。続く。

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哲学の才能でいえば、今のところ2ちゃん哲学板で僕を論駁できるやつはいないほどだが、
音楽となるとそうもいかない。俺より凄いやつは沢山いる。
でも音楽を理論的に考えることに長ける私は、いつかあらゆる音楽を一義に定義し、
それらを俯瞰し、極みの音楽を作ることができるようになる…そんな希望を得た。
全ては夜道、いつもの愉しい思考の悦楽において、脳髄を駆け巡った論理の粒子のいたずらのままに。

kyrieの哲学講義♪二講義目
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1252054859/
ハイティンク&VPO 1995

豪華絢爛なブルックナー。ハイティンクはVPOの輝かしい響きを最大限活かす。
しかし、一楽章は、陰鬱で激しい慟哭の音楽だ。響きは交差する。
もはやどこに楽器が配置されているのかも聴き取れないほど、響きは絶妙にブレンドされている。
臓腑を抉り取るような厳しい表現に貫かれ、まことにシリアスである。
二楽章は、もっとも愉しい時間だ。テンポを遅くとって、巨匠風に展開していくが、
弦の刻みの隅々までが明瞭に聴き取れ、まるで宝石が降るかのような光の体験が得られる。
三楽章は少し浮ついている。この楽章は、いただけない。美しいが、腰の落ち着きはない。
音楽のペシミスティックな部分が表現されていない。
四楽章はまことに派手で、テンポも他のどのハイティンクの演奏より速い。
コーダはこれでもかというほど金管大活躍で、気持ちよく鑑賞を終えられる。
充実感はある。
ホルンとティンパニが全体を通してよかった。もはや人間が演奏しているとは思えない。


ハイティンク&RCO 2005

同時期のドレスデンと比べると、かなり地味である。響きも地味だが、表現も地味だ。
一楽章も、段々盛り上がるというよりは、どんどん内側に籠る。弦の地味さは、味がある、とも言えるが、単に不明瞭なだけではないか、
という気が起ってくるのも確かである。だが、響きの厚みという意味では、ドレスデンに勝る。
弦の混じり合いは素晴らしく絶妙だ。五つのパートが、交差するというより、含みあい、溶ける。結果、全体で一体感を演出している。
管も地味だ。ドレスデンのように、威勢良くはいかない。ここで音響的な快楽を望むことは諦める。
そして何より致命的なのは、軽々しいティンパニだ。これは非常に残念。
だが、どこをとっても、第一級の演奏であることは確かであり、

ハイティンク&ドレスデン国立 2002

理想のブルックナー像と言ってよい。完全に巨匠風の演奏。
底の見えない深い響きに酔う。大木、大岩のように揺るがず、そこに当たる光源の微妙な移ろいを疎かにしない。
本当に人間が演奏しているのか。というのも、RCOとのライブでは、楽器が奏でられる定めゆえの奏法上の制約が、
曲の魅力を損なっていたのが、ここでは楽器が全く自由奔放に表情を変えてゆく。それも徐々に変わっていくので、
あまりに自然で、巨大な自然であり、吸い込まれる。金管は本当に高らかに鳴り、その威風堂々さは神の栄光を音化したかの如くだ。
フィナーレのファンファーレのなんと輝かしいことか。ホルンは深い森に住まう古い精のように、雅やかな趣を絶やさない。
弦合奏は大海の渦か、大空の雲の芸術か、混じりあい、離れ合い、その微妙な距離感が確かに胸を突く。

Recollection,not recognition

2009/12/29(Tue) 17:42 Category: 哲学
I'm studing the history of western philosophy,so…

Aporetic logic is important,it seems.
The author say,

…This recollective logic has its ground in the groundless…

これは、逆説的だ。
すると、
 …this threatens to collapse(崩壊する)into infinite regression if conditions need their own conditions…

となるらしい。状態がその状態を必要とする、という言い回しは日本語にしても十分衒学的だ。

 …recollection learns something different here than does Neoplatonism.

となる。recollectionの思想は新プラトン主義とは違う、と言いたいようだ。何が違うのか?
recollectionは仮定の論理を学ぶ、という。そして

 This logic unfolds itself in thought's self-education as the condition of the possibility of Neoplatonic logic and principles.

 仮定の論理は、新プラトン主義の論理と基本原理の可能性の状態として、論理自身を思考の自動学習の中へ開く??と意味不明な文章が出てくる。しかしわかるのは、「可能性の状態」という語の執拗さ。
西洋哲学は、その(西洋哲学の)可能性の状態を知らないとき、それ自身(西洋哲学)を誤認識する。それこそが新プラトン主義らしい。
しかし可能性の状態を「認識する」だけでは、recollectiveな論理には至らない。
誤認識の「認識」はせいぜい、「真実が非真実に打ち克つ」くらいの意味しかもたない。

…疲れる。

冬休み~♪

2009/12/23(Wed) 17:14 Category: 徒然
ここに冬休みの目標を掲げておこう。
英語:一日2時間
仏語:2時間
数学:1時間
哲学史(英語):1時間

の6時間勉強を目指す!!!
絶対に院に行ってやる!!!
ゲームはFF13、ゼルダ大地の汽笛をクリアする!
音楽は、俺の所属バンド:アゴニの1STアルバムをレコーディングする!
和声は1日1時間!
オーケストレーションも1時間!

ひゃっほうぅぅ多忙だぜ!フェイトも一緒に院目指して頑張ろうぜ!勉強会でも開くか?
メルヘンにおいてマーラーの第三、第七交響曲、ショスタコーヴィチの第四交響曲に比肩する。個人的20世紀の交響曲ベスト20には入りそう。そこにマーラーやシベリウスやP.M.デイヴィスの諸作品が入ることを思うと、
私はこの曲を法外なほど高く評価している。30分、単一楽章。
たぶん、日本で手に入るCDは網羅している。

尾高 忠明 BBC

この曲の暗さを徹底した名盤。根暗な日本人らしさを発揮して、とにかく淡水のごとき筆記で曲を塗りつぶしてゆく。
展開は非常に遅く、細部にあくまで拘泥する。その結果、自作自演以上に緻密に音は鳴らされ、全体像が浮き彫りになる。
この曲を愛する者には絶対に薦めておきたい。爽快感は、ない。また、ユーモアも若干相殺されている気がする。
それでも、圧倒的な感情の渦に巻き込む展開部やクライマックスは感動的で、それが日本人的に細い線で描かれているのが、
現代的でよい。集中力は要するが、感動的な名盤だ。スケールの大きさは獲得しているが、それが力技で無い点も評価できる。
オケも上手いとは言えないが、頑張っているようだ。

バレンボイム/CSO

尾高盤とはまるで正反対の性格で、面白い。尾高が日本人的根暗さでじとじとちまちまおそ~く展開するのに対し、まるでカルフォルニアか
イタリアの陽光の中を駆けるように爽やかで快速の演奏。尾高盤がオケの点で残念なのに対し、こちらは天下のシカゴ響である。
アンサンブルや一体感という意味では、素晴らしい。バレンボイムを評価する批評家も増えてきている中、是非ベルリンフィルとこの曲を
再録してもらいたいものだ。この演奏、細部には拘らすに疾走するが、そうして初めて聴こえてくる本質を宿しているのも確か。
響きが現代的なのだ。チェーン形式もこのような解釈のもとで映える。尾高が音響の面で失っているものを、バレンボイムは鮮やかにかつ軽やかにかつ
色彩豊かに描き出してみせる。音の流れるような性格、上にも書いた疾走感が、単純に気持ちいい。これはこれで、評価できるアプローチである。
金管も派手で、とにかく聴いてて愉しくなれる盤だ。

サロネン/ロスPO

甘く口どける木管、楽器の優しい扱いがユニーク。
緩い緊張感を幻想的なタッチで描く。情感豊かで、勾配があまりみられない分、迫力や厳しさは皆無だ。
音が柔らかいので聴きやすい。目を覆いたくなる現実は、この盤では響かない。音楽本来の牙が、丁寧に包み隠されている。
弱音部分の楽器の扱いはとても丁寧で好感がもてる。水のように滾々と湧き出る楽想が戯れる。
響きのブレンドはもはや職人技。その分もっと金管を鳴らしてほしいかも。

ウィト/PNRSO

全体の音響が、よく研究されている。一音一音のこだわりと、楽想ごとにおける俯瞰とが、この曲を集中力で一気に描き上げる。
力強い暗い衝撃だ。様々なイベントをいちいち鮮やかに照らすことはせず、代わりに曲想を一貫させ、暗さを獲得している。
ルトスワフスキ後期と中期の境にあるこの曲の、後期的な恐怖を主に表現しており、まるでポーランドに住むという怨霊に憑かれたかのようだ。
同じく暗い尾高盤との違いは、迫りくる躍動感が溢れている点である。悲鳴のような尾高盤に対し、こちらは力強い情念とでも呼ぶべきか。

ルトスワフスキ/BPO

自作自演。さすが自分の曲だけあって、細部に至るまで明瞭な演奏だ。音は控えめで、大言壮語しない。
他の盤で聴けないのは、普通の演奏では埋もれてしまうであろう声部が浮かび上がるところで、その浮かび上がりが
本人の自作に対する愛情を反映しているようで、微笑ましい。演奏自体は、クリアな音色で、全くロマンチックじゃない。
曲自体はなかなかロマンチックだと思うのだが、あくまで現代的な解釈を貫く。弦の千切れそうな繊細な音がとても美しい。
スケールこそ、細部にこだわるがゆえに相殺されているが、聴くべきところは多い。特に展開部のフーガは、
声部が絡み合い、どのパートもうねうね自在に動いていて、面白い。もう少し管を鳴らしてもいいのではないか、とも
思うし、小粒な演奏だとも思うが、瞑想度が高く、感情を排した解釈はなかなかに抽象的で、自作自演であるという点を
無視しても、十分立派な演奏だ。

ルトスワフスキ/PNRSO

これが、ルトスワフスキの最期のレコーディングだという。それだけで何か悲愴なわくわく感を覚えてしまう。
音の純粋な遊びとしては、非常に高級。この曲に内在するドラマチックな情念は、まったく表現されていない。
軽やかで、少しも力で訴えない。あくまで冒頭の印象だが。
透明の極みにある愉悦に、心を白く塗られるがまま、次第に怖くなってくるのはなぜだろう。
音は軽いが、研いだ刃物のような鋭さをもち、それは峻厳でさえある。
無表情の能面の如き恐ろしさ、とでも言いたい。面が、心の痛みを訥々と吐露する。抗菌された部屋が白すぎて怖い。
そうやって聴き進んでいくうちに、希薄だった感情性がじょじょに指揮者の中で疼きでもしたのだろうか。
どうしようもなく押し寄せる思いが、無表情を許さない。
ポーランドの暗い歴史が、重みもなく、あらゆる付加物を除き去ったのちの虚無と無念とで、揺さぶってくる。
次第に粘りを増していく音が、感情的に高まっていく様は、まさに恐怖。

卒論書き終わったぁぁぁぁああ

2009/12/16(Wed) 15:18 Category: 課題
目次

第一章  芸術の定義と、認知論への誘い
第二章  認知論の展開
第三章  認知論からの存在論
第四章  時間、分析と、新しい芸術

____________________________

心脳問題の解決や、「時間とはなにか」というテーマに挑み、新しい芸術への道を拓いた、と信じる。

あぐのたん

2009/12/10(Thu) 23:48 Category: イラスト・CG
あぐのたん
Agnostic Nihilistのマスコットキャラクター、あぐのたん。
フェイトの友人が描いたものを、自分なりにアレンジ。
なんかいろいろグロくなって済みません汗

新作:絶望

2009/12/08(Tue) 23:39 Category: 作詞・作曲・編曲
ついにプロジェクト・あぐのが始動!!
私とくりけっととフェイト(無限∞虚無)が立ち上げる新時代バンド:Agnostic Nihilistのオリジナル
第一段:「絶望」の試作品が完成した…↓
http://ewind.homeip.net/impress/200912/8462.html

もちろんこんなカオスを実際に再現は不可能だから、アレンジしてドラムが入りやすいように
するつもり!変拍子がデフォなのだが、ドラムは入りにくいだろうな…

さよなら青春

2009/12/05(Sat) 23:13 Category: (貴重な)恋愛のお話
咲く月を蹴った、宴のさなか、夜の喪。
孕んだ胸は金属製、生まれくる予感も金属の味覚を払拭することはできずに、ただ望外の
蒼い夜を風から伝心した。
散った髪束、金属的硬さに床へ刺さるには余りに柔軟で…緊張感を欠いていた、なされるがままの
着付けと解釈の差と差をなにで埋める?想像は暴走し、妄想は奔走し、郷愁は遁走する。
泣けない情景を奏で、笑い飛ばすにはあまりに虚ろな幼い君の顔の中央に延びる穴。
情けない敬具を弔い、謳うにはあまりに悲しい内容のない宣伝を回避するスーツ姿の雇われ使われる人々。
葬列に僕だけは加わるまい、そう決めた、あどけない十代のぎりぎり許容可能な誇大。
それは既に鳴らされたあとで…再び耳は潤わない、永遠の干ばつ、削り合う鈍器と鈍器。

__________________________________________

まあ一言でいえば、AKB48が気になっている、ということです。特にあっちゃんこと前田敦子が可愛い。
でも今日、嬉しいことがありました。一緒に散髪に行って、可愛い無垢な変身を遂げた彼女を、正視できないほどあああああああああああ

かゆ
うま

とにかく彼女が変身した!それが嬉しい^^

L'arc en Ciel:Bless

2009/12/01(Tue) 22:09 Category: HR/HM
バンクーバーの主題歌にラルクのニューシングル:blessが選ばれましたね。
NHKで聴きましたが、Hydeの歌声だけでお腹いっぱいで、肝心の曲は当たり障りない
つまらない曲だった。最近のラルクの傾向がわからない。
Drink it downみたいなダークでクールな曲があるかと思うと、SHINEみたいな超爽やかな
曲もある。四人全員がコンポーザーで、交り合う個性の幅広さがこのバンドの魅力だとは思うけれど。
そして明日は、ついにdir en grayの「激しさとこの腕の中で絡みついた灼熱の闇」発売です。↓PV
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8967784

おいおい、堕威と薫のギターやばすぎだろ…shinyaのドラムも重くなってるし…
なにより京さんの進化っぷりがすごすぐる。。

今日は「君に届け」だ~^^
爽子に癒されようw
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7203405

さあ ふ る え る が い い

とは言ったものの、この曲苦手。暗から明への音によるわかりやすいドラマ。
シュニトケの作品の中でも入門的な位置を占めるであろう。
ロマンチックな旋律があると思うと、二楽章は沈みっきり。三楽章ははっちゃけてる。
そして光の降るような終楽章。ちょっと恣意的な構成すぎるとも思うが、
まあ名曲といっていいんじゃないか!?

セディーン&セーゲルスタム bis

イヴァーシキン盤に比べ、チェロの力強さが劣るのは否めない。そこは、この熱い曲を演奏するにあたって致命的だ。
呼吸を一単位とするイヴァーシキンとは対照的に、この盤は楽想を一単位とする。その姿勢は非常に重大だと思う。
一楽章のスケールの大きな盛り上がりを弾ききるのに、呼吸がないと、聴いている側としても窒息しそうになる。
また音色がか細いので、それも息詰まりの原因となっている。
しかしバックのオケは凄い!響きは整理されていて、全てのパートがちゃんと聴こえるし、スケールも厚みも十分だ。
この盤、バックだけをとれば完璧であり、これ以上は望まない。さすがセーゲルスタム、田舎のマイナーロシア指揮者とは
一線を画す。チェロが生きるのは、遅い2,4楽章だ。攻撃力は0に近いが、内省と外向の際どい線上にあって奏でられる
瞑想的なチェロには、落ち着きさえ感じる。終楽章もすばらしいオケが手伝って感動的だが、やはり消極的なチェロは
好みを二分するだろう。

クリーゲル&マルクソン NAXOS

管弦楽の安定さが魅力。シュニトケのオーケストレーションは決して巧くないと思うが、それをカバーして、響きを良く整理してある。
他盤だと金管に押しつぶされぎみな木管に重きを置いてるのもよい。またこの盤をより特徴付けているのは、チェロの地味さである。
チェロは独奏楽器というより、完全に旋律の一部として、むしろオーケストラを彩る。決して積極的なチェロでなく、目立たない存在ではある。
しかしアダージョ楽章の抑制された響きはなかなか魅力的。この楽章だけは、チェロが光る。雑音味のない、美しいチェロだと思う。
しかしバックのオーケストラの、不完全燃焼度はどうしようもない。冷めた演奏である。一楽章は聴き手を鼓舞し、どんどん盛り上がっていくべき
音楽だが、とにかく盛り上がらない。音のバランスに拘泥するあまり、大切な音楽の大きな流れを奪われたかのようだ。
響きは綺麗で、むしろ堂々たるものだ。重厚さまで感じられる。しかし、それだけでは木を見て森を見ず、というものだろう。
終楽章もあまり高揚しない。感動しない。だが一番手に入りやすい、シュニトケ入門としては、お薦めできる盤である。

グートマン&ロジェストベンスキー Regis

圧倒的だ。私はこの盤を4番目に聴いたが、他の盤の存在意義を疑ったほどだ。初演者は違う。まず、オケとチェロのこれ以上ない親和性に、拍手しよう。
流石は一流の伴奏者、ロジェストヴェンスキーである。チェロを決して殺さず、生かしきり、自らは伴奏者としての位置をわきまえつつ、
意図されたオーケストレーションを鳴らしきる。木管が良く聴こえるのもよい。そして深い呼吸と滞空力。ひとたび息を吸うと、その長い持続のうちに、
吐息は底なしのように思える。それほどまでに巨大なスケールは、チェロとバックの別を問わない。これこそが協奏曲の理想の在り方だ、とすら言える。
シュニトケ、いや、協奏曲を聴きたいのなら、この盤を聴け、と言いたくなるほど、完成度は高い。グートマンのチェロは並み居る男どもを蹴散らすように、
まさに男勝りだ。美しい音色とは言いがたいが、ばりばり突進していく攻撃力はすばらしい。力強さで言えば、ややイヴァーシキンには劣るが、
アダージョ楽章のざらついた音色はいいアクセントになっている。
終楽章は、オケはなかなか爆発しない。抑えて抑えて、活躍の場をチェロに譲る。
チェロは息を無尽蔵に使い、気持ちよく昇天する。聴き手も天にも上るような体験ができる。そして本当に最後の最後、
オケは一切の空間を満たし、
その眩暈のするようなカタルシスは、他盤を寄せ付けない。三楽章でチェンバロが大音量で活躍するのも面白い。

ゲアハルト&クライツベルク

海賊盤。ゆえに多分ここで紹介しても、手に入れられる人は極稀であろう。
一楽章のチェロの大暴走を買う。ここだけは、音色を捨て去ってまで迫力を追求した精神において、グートマンやイヴァーシキンを
凌ぐ。かなりロマン派風の解釈で、それが全く違和感を感じさせないのは、この曲が古典化した証だろう。
だが終楽章は金管の息が続かず、寒い。隙間風がする。感動は、ない。
チェロも少しも美しくなく、小粒だ。

イヴァーシキン&ポリャンスキー CHANDOS

イヴァーシキンのチェロを聴くための盤。宇宙に吸い込まれるような冒頭に魅せられ、鬼気迫る迫力に聴くものは力負けする。
芯の強い音色で、よわよわしいオケを叱咤するように音を巻き上げてゆく。一転、アダージョ楽章には傾聴させられる。
影の濃い音色で、作曲者の心の隅まで透かす。これまた吸い込むような深い祈りにただただ聴き入るのみ。
また、美しさも十分で、漆黒の美とでもいうか、闇のうちに孤独を訴える悲しさに、美しさは出し惜しみしない。
三楽章はオケが弱いが、チェンバロとチェロとの掛け合いは面白い。
終楽章もやはりオケが弱い。盛り上がりに欠ける。が、イヴァーシキンのチェロは感動的な盛り上がり方をする。
チェロだけを採っても、購入の動機に十分なりえよう。グートマンの次に推したい盤である。

ドラマーとドラマと

2009/11/15(Sun) 23:24 Category: 哲学
昨日、ドラムの無限∞虚無くんhttp://52789.l-3-l.me/essay/とセッションしてきました。
初めて俺のオリジナルを一緒に練習したわけですが、楽しい^^
でもドラマーには五拍子→三拍子→四拍子という超変拍子を要求してしまった汗
ナパーム・デスやスリッペやディルを超えるにはこれは当たり前だよね!
エレキチェロはスタジオで鳴らなかった><私はキーボードに専念します。

さて、哲学科の彼との哲学談義も面白い。彼はどちらかというと大陸系で、俺は分析系なのですが、
この二人が合わさればすっげえことができそうだ。
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関係性を変項にとって、個物を演算子ととると、どんな関係性にも関わらず個物として
式中に存在する一般的個物が得られる。ここで、関係を変項とした場合、普通、関係は
最低でも己の己に対する関係であるが、ここでは関係先を借定しないことで、
一般的個物の関係、の、関係部分すら一般化する。すると、一般的個物に対する変項としての
関係は、一極をもちながら、その極すら一般的であるから、それが関係性を帯びていくという
過程の中で、当の個物と関係性とが一緒になって、変項である絶対的無と、己である絶対的有とを直観させる。この直観は偶然的と見るべきでない。
もちろん個物を変項に取ることもできるから、その場合は、一般的関係性があって、そこに
一極として個物を借定するが、式中の帰結名辞を空けておくことで、同様の関係(個物と関係性における関係)が得られるが、
やはりこの同様の二つの関係を、起源を遡ると、同様とみるべきではない。
個である名辞は、帰結でないし、前提でもないことで、式に対して相対的である。
それは、関係名辞を貫通するか、階層的に、関係と別論理空間に迂回して在る、というように直観されるのも、
偶然と見るべきでない。
 直観の必然性について、直観がアプリオリな時空形式であるとする点で、私はカントと
意見を異にする。直観は、センスデータや物理的対象と、少なくとも時空を共有している。
直観する時間は、私がそこを生きるデータの中で、まず直観されるデータの時空形式と対応する。
次に、いろいろな表象されるデータと対応していって、ついには刺激そのものへと至る。
同時に、直観をセンスと必ずしも関係しないデータの表象とみるならば、私自身の秘密へと
いたることで、センスと私の奥底とを対応付ける。その変項はデータであり、対応付けは
またここでも直観される。センスが恒常的であるがゆえに、私は私の秘密に触れえない。
直観は時空的であるので、センスの時空性、またその解釈に私が束縛されるからである。
 さて、センスとは関係性そのものであるので、先の定式が生きる。私がいるのは、必ずしも
自明でない。それは、コギトは恒常的でないからだ。
むしろ、センスはコギトゆえに恒常的でない、とも言えるので、いずれにしろ私の生が、性が、
国籍が、名前が、他のあらゆる変更不可能な私を縛るものが、私の生を構成していて、それが
私の全てででもあるかのようだ。生が、全てであるのなら、生そのものは直観できないだろう。
一般的な生が(私の秘密。その概念化とは別に)センスにより個に分割されるのならば、
直観するものとはどこに在るのか。
これが俺を悩ます問題であり、大陸系と英米系の哲学の交差点たりうるだろう。

罪業~2~

2009/11/10(Tue) 00:04 Category: 厭世のつぶやき
前記事で華凛さんに指摘されたけど、単に気分的な浮気なら、前記事みたいなオナニーを
しなくてもいいわけです。で、俺の罪は、ここからディープになっていきます。
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ホストをやっています。ホストは、この世で最悪の職業といっていいでしょう。
ホストにとって仕事は簡単。街中で女の子をナンパして、お酒を飲ませ、自分も飲み、
高額のお酒を頼ませ、金を巻き上げる商売です。
それ自体が罪といっているわけではありません。私は、ホストを罪とすることで
他の頑張っているホストを貶めたくありません。
ホストをやっていると、女性を見る目が変わります。金の元の対象にしかなりません。
歌舞伎町で、女の子を見つければ、性格はおろか、年齢も容姿も関係ありません。
金になるかならないか、という目で見ます。むしろ、顔が劣っているほうが
ホストに囲まれてちやほやされたいのではないか、という邪推までして、
私が外見で敢えて好みでない女の子に声をかけることまでやっています。
どうです、腐っているでしょう??
明日は、母親の誕生日です。でも、私はホストクラブで仕事があります。
今、かなり鬱状態なのですが、安らげる場所は彼女と母親だけです。
母親が生まれた大切な大切な日に、見も知らぬ女の子に声を掛けまくる人間をどう思いますか?
私は、今日店長にこの仕事を辞めたい旨を伝えました。それは、良心の呵責などとは
間違っても言えません。単に、自分の顔面がホスト顔ではないことへの、また
女の子と話してもつまらない話しかできないことへの、コンプレックスがこの仕事を
辛くしている、それだけの理由です。

これが五つある自分の罪の、二つ目です。

罪業

2009/11/08(Sun) 01:46 Category: (貴重な)恋愛のお話
このブログは、彼女が見ている。それを私は知っていて、あえてこの記事を書く。
彼女が傷つくと知って、そして秘していた現実を明るみに出し、もって真実の愛を
今一度確認しておくために。
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私は、卑劣な人間だ。屑だ。ただプライドとアイデンティティに固執し、学問という甘い
汁に漬かり、芸術という塗料に隠れながら、裸体を見ている。
そう、私は、何度浮気したのだろう。彼女に愛を実しやかに囁きながら、別の女性を思う、
腐った思考を別段咎めもしない己の卑劣さよ。私の浮気が、肉体関係に至ったことはついに
なかったが、それを唯一の救いと看做すかどうかは、私の僅かばかりの乏しい良心でさえ
見逃すことを恐れる。
それは私の倫理的な掟が働いたのではさらさらなく、ただ矮小な自己嫌悪が行為に踏み出す
勇気をぎりぎりの精神状態にて奪っていたにすぎなかった。
もし私の勇気が踏み出せば、いつでも肉体的な浮気に走る可能性があることを、今でさえ隠さない。
だが、愛する人よ。私は貴女を信じ、盲信し、それを手玉に取ってきた。だが、
私は貴女を生涯の活力の唯一の源とすることをここに誓う。
貴女が言ってくれた、それはパロディだったけれども、真実味をもって私の暗い湿気を
追いやった、「世界の果てまで盾になる」(メガマソ:ビューティフルガールより)。
だから私はその盾に守られる限り、貴女の背中だけを見て、必要を感じたのならば、それを押そう。
盾である貴女が奪われそうになったとき、私は卑劣にも後ろを振り返るだろう、しかし
今の私は、貴女が危ういのならば、涙をそっと拭う同じ指で貴女の秘密に触れる。
誰にも明かされない秘密を、盗み見はしない。むしろ共有して、守護し、彼岸にまで
連れていく。
誓うよ

新小説のヒロイン

2009/10/23(Fri) 01:57 Category: イラスト・CG
新小説のヒロイン
描いてみました。片目は潰れてます。てか、縫われてます。
なかなかプロたんみたいにはいかないなあ…

懸賞論文挫折したorz

2009/10/19(Mon) 23:42 Category: 哲学
もうなんかね、明日が締め切りで、四日で書けるか、っていう。。
六月が懸賞論文の説明会で、こつこつやってる人たちがいる中で、俺は期限に間に合わなかった!!せっかくだから貼っておくか…だれか、FATEあたりが読んでくれるだろう…



「人が人を裁くこと」というテーマを一目見て浮かんだのが、ホッブスの「万人の万人による闘争」という考え方である。法のない自然状態は、なまじ彼らが私欲のための
理性を有するがゆえに、益となるものを争い奪うというのである。しかし、もし理性に私欲の面を認めるのならば、闘争そのものを益と解さない理性が、闘争を鎮める何かを
模索するだろうと思われる。そうして拵えられるのが法である、と安易に定義することもできるが、ここでは、人間の有史を顧み、どのように法が発展し、どのように
「人が人を裁くことができるのか」を存在論的に考察する。そして「人が人を裁くこと」という理念の倫理学的意味を明るみにだすことをもって、この論文の結論とする。
 人類の発展、猿人から現代人に至るまでの道筋は、現代の赤子が大人になるまでの道筋とはまるで異なっていることに注意しよう。赤子は果たしてアプリオリな概念を
もっているのかどうか、という問題は、次の議論に代表される。すなわち「もし、この『人間の内面』と呼ばれるものが、器状で、何かに満たされている必要があるのならば、
内面とは自然そのものの歪曲に過ぎないのではないか」。なぜなら、少なくとも赤子は知覚という関数を通して、自然を歪曲しているのは疑いなく、
「赤子がそれをいかなる解釈に照らすことなく受け入れるのだ」と主張しても、「ある知覚関数の出力である内面的な何かが、関数によって自然的でなくなっているがゆえに、
個々の対象の関係性を、内面において再構築しているのだ」という主張により反駁される。そして、対象という概念は、知覚の明確な輪郭を前提しているが、例えば視覚世界に
おいて、「認識されているのは彩色された平面である」、つまり「一枚の画像を、対象に分割することなく眺めているという視覚が、原初的な感覚所与である」と還元主義的に
主張しても、虚しいだけであろう。私は現在の私の状態から過去の私を帰納し、そうやって迂回を交えて赤子状態を考えるとき、「今の私は昔の私よりも
対象を多く持っている」つまり「対象の分節は年齢とともに鋭くなる」という状態から推して、「対象は時間を遡るにつれ減っていく」とまでは言えるかもしれない。
しかし完全な対象の無から対象の分節は生じない。認知論は未だ現代哲学においても解決されていない分野であるので、このくらいにしておくが、これから私が認知において
採るべき立場を明らかにするに際して、認知心理学の「オペラント行動」説を、現在最も説得力のある説として採用したい。オペラント行動説とは、赤子の出鱈目な行動すべてを
考えて、ある特定の身体の運動が、一定の効果を引き起こしたとき、この効果と運動との間に対応関係が築かれ(もっともこの効果と運動との間の対応は、
何度も繰り返すことでそれと分かるのであるが)、築きうる対応は、もし世界のほうが一義的であるのなら、自然と決まってくる、という説のことである。
そして、対象の認知以前に、出鱈目な行動を論じるこの説によると、運動と、それが引き起こした反応とが対応関係を築くことにより、反応が徐々に鋭くなっていく。
つまり、何度もある行動とそれによる反応とを引き起こすと、初めは漠然としていた対応関係が、「この行動はあの反応を引き起こす。これは何度も経験したことだ」
というように、強化され、行動が意図的になる。「行動の対象」としての対象が、初めて定義されるのだ。
 認知論は以上にしよう。今まで論じたのは、個人と世界との関係であった。次に、個人と個人との関係を考える。主観と他人との関係は、独我論でしか説明されえない、
と言うべきか。しかし、自己という概念は、他己に先行することはない。なぜなら、彼が周囲の人間を客観視し、どれも押し並べて同様である、と理解し、さらに自分と同様である、
と理解するとき、初めて自己と他己が同時に出現するからだ。知覚するものすべてに、独我論を適用するのはいけない。なぜなら、知覚したものが、たとえ独我論的であるに
せよ、それぞれが特徴をなして世界をなしている原理は、独我論的な知覚のほうには存在しない(たとえば、目の前の対象はまさにほかの場所でなくそこに在る、
という原理は独我論の外に求められる)。従って、ウィトゲンシュタインの写像理論を援用するにしても、知覚の関数の入力を「語りえないもの」として一括に還元することは、
それぞれの対象の存在の理由を無視し、つまりそれぞれの対象が関数により出力されたそのままの姿の間の差異、それぞれの諸関数の差異、をいちいち分析せず、
「語りえないものと語りうるもの」として知覚の原理を綜合的に扱うことだ。つまり、今現在、在る知覚から分析した結果として、「語りえないもの」に行き着いたわけでは
なく、いくつかの分析の事例から、「知覚関数の入力は語りえない」と結論してしまうことは、綜合的である。
 さて、今まで語ってきたのは、分析的な事柄である。そして、「人が人を裁く」ことは、もちろん綜合的である。なぜなら、「人が人を裁く」と言うとき、それは
現在の事例から帰納できず、「人」「裁く」といった諸概念を組み合わせた結果、初めて生まれるテーゼだからである。そして、人が外の世界に接するに際して用いる関数
を越えて、語りえないと言われる関数の先を超えて、人の自我と他我とが関係をもち、さらにそれら自我間の関係の分析を越えて、「裁く

懸賞論文「人が人を裁くこと」

2009/10/15(Thu) 19:16 Category: 徒然
金が欲しいので懸賞論文を書いてみる。一等は15万円。ほかの大学に比べて安すぎないか?
まあ一等を目指すというより、「人が人を裁く」というテーマで、「共同体」という概念を極めたい。
文献としてはヘーゲルの「精神現象学」、ジャン・リュック=ナンシーの「複数にして単数の存在」
くらいしか役に立ちそうなのはうちにないけど、それらを読み返すだけで意義があると思う。
でもイタリアの現代哲学をまるで知らない俺が、このテーマで認められるのか謎すぐる。

バンドの初顔合わせに行った!生ドラム生ギタースゴスwww圧倒されてしまった。
最高に病んだ音楽を目指して作曲してるけど、こいつらとならうまくやってけそうだ!^^

http://ml.naxos.jp/album/8.557400
↑を聴け!ふ る え る が い い

私が神と崇めるイギリスの大作曲家、P.M.デイヴィスのナクソスクアルテットNo.10を聴いて。

複雑性の探究と単純性の極致。
そしてロマン派を思わす、大きく揺れ動く地響きのようなダイナミクス。
それに平行する、音の緻密な分析。彼が生涯愛してやまない単純なリズム動機が、
これほどまで多彩に鳴り響くことが、常識で考えられようか。
予測不可能な和音づかいに、音数の極端な増加と減少。
そして瞑想と舞踏。音による自己反省と遊び。これら多岐にわたる要素が見事な融合を遂げた
最高の形が、ここにある。

あ、普通にメタルとかヴィジュアル系を聴く俺がいいというのだから、着眼してくれてる人
みんなにお薦め☆
なんだかクラシックを聴くザ人減っちゃった…ウリッセさん、ラルゴさん、黒羊さん…

交響曲第一番祭り

2009/10/07(Wed) 22:58 Category: 弦楽器・クラシック
 ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud 1892-1974):交響曲第一番Op.210 ★★★

フランスの作曲家。「フランス六人組」の一人。多作で、なんというか、淡彩のような
曲を書きます。
お気楽思考で始まるこの第一番、水の飛沫がぶつかり合っては弾けるような爽やかさに貫かれてる。
音の運動は多彩、田園から嵐まで、油分を失った絵筆が力みなく描く。

 エドマンド・ラッブラ(Edmund Rubbra 1901-1986):交響曲第一番 ★★

イギリスの作曲家。変則的なリズムと危険度の高い和音が不安感を煽る。
完全に戦闘音楽。反復の多い曲で、音型が緩やかに変容しながら、戦争の栄光と影を濃やかに描いてゆく手腕は買う。
でも、地味すぎかな。

バンドを始めるのだ!

2009/10/02(Fri) 00:53 Category: バンド
小1にてピアノを始める

小3にてチェロを始める

高1にてオーケストラに所属

高2にて作曲を始める

大学4年にてV系バンドを始める←今ここ

いやあね、今までクラシック一辺倒だったので、wktkが止まらない!
今、4人集まってて、ベースを募集中です!
顔合わせにやる曲は黒夢の「カマキリ」。もちろんその後オリジナルをやるつもりです!
とにかくベース!ベースがほしいっ

project kyrie 人間とは何か

2009/09/27(Sun) 18:52
project kyrie 人間とは何か
「人間とは何か」は、経験からは得られない綜合的な問いである。彼は、彼を余すところなく規定している周囲環境と、周囲環境を余すところなく規定している観念論的な
自我に、挟まれている。そして思惟とは、それ自身では純粋である。つまり、環境に対して思考し、発話する行為は第一次的操作である。彼は、オペラント行動をとる。
オペラント行動とは、あらゆる行動であり、それがある対象に対して意味をもった瞬間、その行動は有意味だとして保存される。この行動は、徐々に抽象化されていく。
漠然とした運動がとる対象はやはり漠然としており、その漠然とした現象群に対して同じ行動を取る、と言うべきだが、全く同じ対象の在る環境は不可能なので、
ここで成長は止まるはずなのだ。しかし、運動のパターンは形状からアプリオリに決まっており、するとそれが世界(内面的世界、外面的世界の分枝がない一元論状態)に
対し、ある反応を引き起こす。それが身体の現象であり、彼はまず身体を経験する。もちろん身体そのものを経験するのでなく、身体に付随した現象を経験するのである。
するとここでの構図は、まだ外的対象と身体とが未分枝の一元と、行動をする原理である底知れぬ内面の一元と、それらを感じ、観察するという一元との三元論である。
行動が抽象化する過程とは、なにか。
 また、運動のパターンは、二方向の形状から決定される。つまり、世界のほうにある形状に対し、身体が取れる行動が決まっており、同時に身体の先天的な形状に対し、
身体が取れる行動が決まっている。心理は、そのように決まっている身体に行きわたっており、また決まっている世界を決まっている身体で感じ取るというその世界が、
身体における世界であるとするのなら、最初の世界をどう得て、どう捨てるのか。心理は、また決まっている操作でもある。数学的記号を便宜上借りれば、
物と物とを等号で結ぶ操作は、最初は、外的世界から離れて、心のうちだけでそれら二物を借定できない。ゆえに心に在る対象、つまり像と同時に教えられた記号、の発音、
ないしそれ未満のなんらかの印象、と、外的対象とがイコールで結ばれるとき、一つの論理的操作はなされている。しかし、彼は発音しかしない。その発音と対象を結ぶ
操作が、文以前にあるはずだ。対象は、正確に外部のものでは有り得ない。つまり像であり、写像であるが、原初状態では、写像を外延―内包関係には捉えられないから、
写像は直接心のなかに入ってくる。つまり、なんら論理的操作を経ないから、それが人間学的あるいは生理学的な限定を受けて、写像と化したその像が、外延―内包以前に、
その幼児の内面と一致する。この一致の体験は、成長したものにはついにおこらない。その一致、という操作が、その写像で彼が在った印象を残し、それで、すべてに対し
印象をもつ幼児の、心理的オペラント行動というものが定義できる。つまり、彼は常に何らかの印象をもっており、それがある外的対象に対して意味をもった瞬間、その印象
は有意味だとして保存されるのだ。

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人間とは何か。これ、芸術に直結すると思うんです。今書いている小説も、人間とは何かが
テーマです。彼女がいるのに、DSのラブプラスにはまってしまった…
指揮クレンペラー/1950年代のベートーヴェン交響曲全集
指揮ショルティ/ブルックナー交響曲全集
指揮シャイー/ブルックナー交響曲全集
指揮パートロネストロ/ブルックナー交響曲全集
指揮ヴァント/ブルックナー交響曲全集
指揮ヤンソンス/ショスタコーヴィチ交響曲全集
指揮インバル/マーラー交響曲全集

アーノルド/交響曲全集
ミヨー/交響曲全集
バックス/交響曲全集
ラッブラ/交響曲全集
ヴォーン・ウィリアムズ/交響曲全集
マルティヌー/交響曲全集
スクリャービン/交響曲全集
ハイドン/交響曲全集
アルヴェーン/交響曲全集
オルウィン/交響曲全集
シュニトケ/交響曲全集
プロコフィエフ/交響曲全集

シューベルト/室内楽曲全集
ヴィラ・ロヴォス/弦楽四重奏曲全集
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こんなに買っても聴いていないCDが!!
これは大変だ…
ここで随時紹介します。
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