人間がなしうる思考は、二通りある。
ひとつ:分析的思考
もうひとつ:綜合的分析思考、つまり分析された思考を綜合的に回復する思考
前者の究極は、即自である。即自は、外在を否定する一点、一点の直観に限りなく近づくという
悟りである。この境地に達すれば、純粋空間性、純粋時間性に身を置くこともできよう。
後者の究極は、この思惟を綜合的に分析することであり、外在の一片としてのコギトそのものに
なることである。コギトという直観に優れて一致すれば、同一性の直観そのものとなることが可能で、
同一性の直観は限りなく時空0に近づく。それこそが自己の客観化である。
完全な客観化は、自らを宇宙の一部だと認識するだけでは足らず、一部そのものになる悟りである、
とすれば、俺は悟りを上述のように哲学的に証明した。
悟りには、即自状態と客観状態の二種があるのだ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7203430
ニコ動より全曲↑
シュニトケのチェロ協奏曲一番に恋したのならば、この曲も聴かねばならない。
心臓を患い、作曲者が倒れた1988年を境にして、曲の包する暗黒は深まる一方だった。
この曲は、病的な旋律が死の淵を彷徨い、届かぬ光を求め、果てる一連の物語である。
しかしそれだけでは終わらない。この曲は、シュニトケにしては珍しく現代的なのだ。
一番が、新ロマン派の代名詞のように評されることもあるが、二番の晦渋さには理解に苦労する向きもあろう。
短い一楽章、序奏を経て、流れ込む二楽章。抽象的なメロディーと構成とは、シュニトケの諸作品の中でも異様に思える。
金管の高らかなファンファーレを美しく縁取るチェロ、迷路に迷ったような不可思議な音群。
そして終楽章、実に16分を要するこの楽章が、白眉である。
彼の作った映画音楽、「苦悶」からの引用で始まるこの楽章は、調性と無調性が交差し、
秩序は乱れ、安定性は崩れ、音響的に輪郭が複雑で、かつロマン的に徐々に高まっていくというまさに現代性とロマン性の融合をみる。
ロストロポーヴィチ&小澤征爾/ロンドン交響楽団 1991
初演者ロストロポーヴィチによる歴史的録音という意義以外には、魅力のない盤。まずロストロのチェロだが、
イヴァーシキンほどの突進力、鋭さ、攻撃力がないし、かといってセディーンほどの内向性、静寂、瞑想もない。
かつてのロストロは凄かったことを認めつつ、ここではすっかり年老いて力を失った人間の悲しさ以外に聴くべきものはない。
しかし、テクニックは衰えない。四楽章の超絶技巧を鮮やかに操るチェロには舌を巻く。
そしてオケは、もっと酷い。小澤は音楽を刹那的にしか捉えておらず、息が短く、スケールも伸び悩み。
壮絶な音響で魅せず、聴き入るべき静寂を湛えない。終始大人しく、オケの見せ場はない。
ただ、終楽章だけは、このアプローチもありなのか、とも思わせる。解釈が現代的な分、この晦渋な音楽に新たな光を照射しているのも確か。
イヴァーシキン&ポリャンスキー/RSSO
イヴァーシキンのチェロに圧倒される。テクニック面では、細かいパッセージのどの部分も完全に弾き切る。
全体的に速い演奏だが、音の一つ一つに表情がこもり、表現はダイナミックで、狂ったように突き進む。
漸次的に微妙な音色の変化を聴かせるチェロは、人間がいて、チェロをもつ手があって…という人と楽器との媒介性を意識させない。
チェロが直接心と繋がってるかの如くだ。
音は野太く、しかも鋭く、機動力があり、深みもあり、力強く、柔軟で、迫力がある。これこそ、理想のチェロだ、とすら言える。
しかも音色が美しいときたら、もう言うことはない。ポリャンスキーもいつもの鈍感さはあまりなく、なんとか満足できるレベルには
達している。
旋律の線より、響きの空間性を意識したオケは、他の曲では鈍くていらいらするのだが、ここでは成功している、といってよい。
セディーン&マルキツ/MSY
オケとチェロの幸福な融合が聴ける。音量バランスがとても良い。セディーンのチェロは、イヴァーシキンと比べると酷なのだが、
やや積極性を欠く。だが、この曲に積極性が必要だろうか?必要なのは、瞑想と、黙認と、苦悩と、堪え忍ぶ精神だ。
それをセディーンは見事に表現しきる。超絶技巧を聴かせるチェロではないし、また線も細めだが、宙釣りになったようなチェロ、
苦しみの吐露、空間を生み、そことの対比で、旋律を奏でるチェロは、この曲と非常に合っている。明らかに、同じ奏者のチェロ協奏曲一番より
素晴らしい出来だ。加えて、マルキツ率いるオケのなんたる素晴らしさ。響きは明晰で、しかも金管の伸びる音色の扱いは巨匠風。
四楽章の押し寄せる巨大な悲愴は、ポリャンスキーなどとは比べ物にならない。
英語で哲学史読み始めました~
最初の方は古代ギリシア哲学なので、わかりやすい。質問受け付けます。
Heraclitusの宇宙観は、始めがなく、恒久的に変転している「生」の宇宙だった。
宇宙内における差異は、logos(論理)、つまりありとあらゆる変転と流動を司る普遍的理の調和のなかでの宇宙に限られる。
ここに生は、停止と純存在へ言及される際、変化それ自身を失うことのないものとして定義される。
一方Parmenidesは、永遠に存在し、あらゆる運動がそこから生まれる宇宙を想定した。
ここに生は、運動と変転へ言及される際、存在性それ自身を失うことのないものとして定義される。
これら両方の宇宙観は、前者は永遠に始まっている(始まるという運動が変化を通して表現されている)という意味で、後者は永遠に存在しているという意味で、ともに永遠的である。
一方Anaxagorasは、自分自身を存在、また変化とみなす精神としてのnusの関係を定義した。
でSocrates。nusを生と死の関係の想起として定義した。それは、祝祭と静寂との弁証法として、どちらか一方であることは決してないものだ。
生が、魂の不死と輪廻のなかの死の連続である一方で、死は、魂を想起するという生のなかに在る。
一方で、魂が身体と対比されるとき、価値の階級が仮定される。つまり魂への偏愛だ。
Socratesは、死へのみ、真の否定を見ていた。生は想起として死の中に真実を関係づけ、
しかし身体なき死こそが魂の純粋な状態であるとした。
なぜ、想起と輪廻の生の真理を維持することより、霊的な思考への絶対性を弁証法は産むことをしたのか?それは、生は、その弁証法ゆえに、その反極性ゆえに、生が恒常的であるので、
肉体的思考を間違ったものとして前提するから。
長かったです。哲学書を読む合間にちょこちょこ読んでたんで、あんまり思い入れもないのですが、
私はこの作品がなぜ「名作」と言われてるのか、まるでわからない。
悲劇だとは思うが、悲劇としての悲愴感は、ゲーテやトーマス・マンなどのドイツ文豪に比べると、まるで浅い。
構成も「複雑」と言われてる割に効果的でないし、キャラクターの定義も浅い。
全ての悲劇の端緒を、カラマーゾフの血に結びつけるところまではいいが、伏線として弱い。
詩的な表現は皆無、ときおり読ませられる人生哲学は新鮮味なく、心理学と称した心理分析も、
嘲笑に値するほどナイーブ。
最後の裁判の場面で、検察のや弁護人の力の入ったせりふが続くが、事件の背景がまず深くは練られていないので、
自然論説も面白くなく退屈だ。アリョーシャの最後の演説で読み手を感激させるのが
作者の狙いだろうが、見事に上滑りしている。こんな陳腐な演説で読み手は感激しない。
感激させようという意図があからさま過ぎて、不快だ。
それに比べて私の小説は、もっと構成が複雑で、場面場面が効果的な配置をなし、
伏線が入り組み、内容は高度な詩的レトリックに覆われ、容易には近づけない峻厳さをも
持ち合わせている、といったら笑われるだろうか。私はドフトエフスキーよりはるかに
人間に対する洞察が深い、と言ったら?
自意識過剰だろうか。私は間違っているだろうか。私は実は、うぬぼれの塊で、凡才なのだろうか。
髪も黒くしたし、顔も若さを欠いてきて、音楽的にも満足できなくなったので、ヴィジュアル系卒業します。まあディルだけは買い続けるが…
で、これからは現代音楽&ドゥームメタルを基底に据え、哲学的考察とノイズを織り交ぜた
暗黒世界を紡いでいこうと決めました。
そんなわけで、いろいろ参考のCD買ってきましたよ。
まず、「マグダラ呪念」という女性三人からなる和風ヘビードゥームロックバンド。
その名の通り、貞子的な陰湿な恐怖を焙りだす激重サウンドに仰け反る。
「呪って!呪って!憎んで!憎んで!怨んで!私を!呪い殺して!」
という歌詞には爆笑w
でも実際にシャウト気味に歌われると、かなり壮絶な効果を生み出してて感動。
泣きそうになった。恐怖でじゃなくて感動でね。
マグダラ呪念公式
http://blog.goo.ne.jp/babylon666
マイスペース
http://www.myspace.com/magudala
あとは、べたべただけどドローン・ドゥームバンド、sunn ○)))の7thアルバムを買った。
いいね。でもそれほど暗くはない。むしろ耽美的?
それからmerz bow。ノイズ音源の使い方の参考になる。
これらに影響された私は、音楽における革命を起こすに足る素材を揃えた。
ある音楽が対象xの表現状態にあるとき、当然、各構成音は表現の分析音である。
例えば、音楽がある和音を表現しているのならば、構成音の各各が当の和音の分析である。
音が、メルロ=ポンティの表現を借りて、即自状態にあるとき、その音はその音にとって
全体であり、分析の飽和であり、分析の極限であり、もっと正確にいえば、
分析可能性と当の音の即自性との中間にある深淵、そのものの状態にあるのである。
ある持続音の、何を表現しているかの多義性(所属する和音を表現している、もしくは同時的に
所属している旋律を表現している、など)
における被表現の度合、つまり持続音の表現している所属性の度合を、一義に決定できる。
これが、指揮者や奏者による楽曲解釈の深さとか浅さとか呼ばれるものである。
即興とは、作曲点において、ある現在音が未来に渡るある表現の分析であるとき、
その音を限りなく現在に収束させていくと得られる音楽的概念である。続く。
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哲学の才能でいえば、今のところ2ちゃん哲学板で僕を論駁できるやつはいないほどだが、
音楽となるとそうもいかない。俺より凄いやつは沢山いる。
でも音楽を理論的に考えることに長ける私は、いつかあらゆる音楽を一義に定義し、
それらを俯瞰し、極みの音楽を作ることができるようになる…そんな希望を得た。
全ては夜道、いつもの愉しい思考の悦楽において、脳髄を駆け巡った論理の粒子のいたずらのままに。
kyrieの哲学講義♪二講義目
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1252054859/